真実の歴史:第1章

YASKA

ソース:https://yaska.moo.jp/dai1syousinnjitunorekisi.html

真実の歴史を暴く

カバールによって曲げられたワンネス民族日本人の

真実の歴史を暴く

2023.3.31

記:YASKA

前書き

前書き

日本人および日本列島はワンネスの高い波動を持ち、加えて日本人は次元上昇の先導役ゆえ、カバールから常に攻撃を受け支配されて来ました。

現在の支配体制を作ったきっかけはカバールが起こした「明治維新」というテロです。明治維新がテロであったことを隠すために明治維新を称賛するストーリーを捏造し、かつ明治維新の正当性を強調するためにワンネス世界であった「江戸時代」が庶民にとってひどい世界であった、という嘘を広めて来ました。

ところで、素晴らしいワンネス世界の江戸を作ったベースは、同じようにワンネス世界であった「縄文時代」です。そしてその縄文時代のベースはやはりワンネス世界であった「レムリア時代」なのです。

私達日本人は今こそ、この4つ「明治維新・江戶時代·縄文時代・レムリア時代」の真実を知る必要があります。それを知ることがカバール支配からの脱却のキーになる、と確信する次第です。

日本人および日本列島はワンネスの高い波動を持ち、加えて日本人は次元上昇の先導役ゆえ、カバールから常に攻撃を受け支配されて来ました。

現在の支配体制を作ったきっかけはカバールが起こした「明治維新」というテロです。明治維新がテロであったことを隠すために明治維新を称賛するストーリーを捏造し、かつ明治維新の正当性を強調するためにワンネス世界であった「江戸時代」が庶民にとってひどい世界であった、という嘘を広めて来ました。

ところで、素晴らしいワンネス世界の江戸を作ったベースは、同じようにワンネス世界であった「縄文時代」です。そしてその縄文時代のベースはやはりワンネス世界であった「レムリア時代」なのです。

私達日本人は今こそ、この4つ「明治維新・江戶時代·縄文時代・レムリア時代」の真実を知る必要があります。それを知ることがカバール支配からの脱却のキーになる、と確信する次第です。

次元上昇先導役の日本人として絶対に知っておくべき真実

次元上昇先導役の日本人として絶対に知っておくべき真実

明治維新

江戸時代

縄文時代

レムリア

前置き情報

前置き情報

お薦めの本

「明治維新という過ち」原田伊織
知ってはいけない「明治維新の真実」原田伊織
書き換えられた「明治維新の真実」榊原英資
「江戸時代通説のウソ」日本史の謎検証委員会
日本人が知らされてこなかった「江戸」原田伊織
「夷の古代史」澤田健一
「縄文人の日本史」澤田健一

「明治維新という過ち」原田伊織
知ってはいけない「明治維新の真実」原田伊織
書き換えられた「明治維新の真実」榊原英資
「江戸時代通説のウソ」日本史の謎検証委員会
日本人が知らされてこなかった「江戸」原田伊織
「夷の古代史」澤田健一
「縄文人の日本史」澤田健一

日本人に関連しているワンネス世界

日本人に関連しているワンネス世界

日本人が関係したワンネス世界、およびそれがネガETによってつぶされて来た歴史①~④をこれから解説

①世界戦争1000 years

特にネガETの拠点となった欧州では、歴史と言えば戦争そのものであり、それが世界中に拡散されて行った事実がこの映像を見ることで良く解ります。

そして戦争はネガエネルギーの生産手段であることも納得出来ます。

特にネガETの拠点となった欧州では、歴史と言えば戦争そのものであり、それが世界中に拡散されて行った事実がこの映像を見ることで良く解ります。

そして戦争はネガエネルギーの生産手段であることも納得出来ます。

地球の次元の低下と現代人が認識出来る範囲

地球の次元の低下と現代人が認識出来る範囲

地球の次元の低下と、現代人がその時代を認識できる範囲

ネガETがもくろむネガ世界

ネガETがもくろむネガ世界

ネガETが人類に対して目論んで来たこと

1.人類にネガエネルギー(重い波動)を生産させる

ネガエネルギーは彼らの餌であり、かつネガエネルギーが充満する世界は彼らにとって快適な環境。

ピラミッド構造の支配社会構築
戦争を常時起こす
金(カネ)中心の世界を構築
ポジ波動を重くする

2.人類が有するパワーに気付かせないようにする

宗教 教育 メディア 科学

1.人類にネガエネルギー(重い波動)を生産させる
ネガエネルギーは彼らの餌であり、かつネガエネルギーが充満する世界は彼らにとって快適な環境。

2.人類が有するパワーに気付かせないようにする

明治維新の真実

今の支配環境を作った

明治維新の真実

教科書で教わった明治維新

教科書で教わった明治維新

教科書で言うところの明治維新とは

--- 長州・薩摩が書いた歴史 ---

明治維新が欧米列強による日本の植民地化を防ぎ、明治維新があってこそ日本は近代化への道を歩むことが出来た。

長州薩摩を中心とする尊王攘夷派の志士達が、幕府や佐幕派勢力の弾圧にも屈することなく戊辰戦争で見事に勝利して倒幕を成し遂げた。それが日本の近代化の扉を開き、今日の繁栄をもたらした。

その功労者が、下級公家の岩倉具視、および長州の吉田松陰、桂小五郎 (木戸孝允)、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文、井上馨、薩摩の西郷隆盛、 大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信、 江藤新平等、いわゆる薩長土肥の下級武士達であった。

— 長州・薩摩が書いた歴史 —

明治維新が欧米列強による日本の植民地化を防ぎ、明治維新があってこそ日本は近代化への道を歩むことが出来た。

長州薩摩を中心とする尊王攘夷派の志士達が、幕府や佐幕派勢力の弾圧にも屈することなく戊辰戦争で見事に勝利して倒幕を成し遂げた。それが日本の近代化の扉を開き、今日の繁栄をもたらした。

その功労者が、下級公家の岩倉具視、および長州の吉田松陰、桂小五郎 (木戸孝允)、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文、井上馨、薩摩の西郷隆盛、 大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信、 江藤新平等、いわゆる薩長土肥の下級武士達であった。

私達が教科書で教わって来ている明治維新とは

1.江戸時代は身分制度の厳しい封建社会で、庶民は貧しく苦しい生活を強いられていた。

2.ペリー来航をきっかけに高まる倒幕運動

1853年アメリカのペリーは、4隻の艦隊で突如浦賀に来航し開国を迫った。江戸幕府は1854年「日米和親条約」を締結。

3.大政奉還により、天皇に政権を返上

ペリーの来航をきっかけに、日本国内では「攘夷派」「開国推進派」とで対立。「尊王攘夷」の機運が高まる。また佐幕派と倒幕派が対立を深め、不安定な情勢となっていった。

条約締結で江戸幕府の権威が失墜するなか、開国と倒幕で志を同じくした薩摩藩と長州藩は1866年「薩長同盟」を締結。江戸幕府も武力で長州藩を征伐しようと試みるが、戦況は幕府側に不利に。15代将軍徳川慶喜は高まる倒幕運動を鑑みて、1867年「大政奉還」を行い、江戸幕府に終止符を打った。

しかし大政奉還では実質的には徳川家が政治の実権を握っていたため、徳川家排除の勢いがまって行った。

4.新政府の樹立と戊辰戦争

1867年、発言力を強めていた薩摩藩や長州藩が中心となり「王政復古」を宣言。これに旧幕府側は激怒。そして1868年「戊辰戦争」へ突入。新政府軍と旧幕府軍が対立し1年4ヵ月にも及ぶ激しい戦いが繰り広げられた。

徳川慶喜は新政府に従う姿勢を見せ、旧幕臣「勝海舟」と新政府軍「西郷隆盛」の交渉で1868年無血開城となった。しかし旧幕臣達はあくまで抵抗を続け徐々に北へ、1869年5月に降伏。新政府が全国を掌握。

5.明治政府の成立

1868年1月、朝廷と新政府は、各国公使に向けても「王政復古」を通告し、対外的にも明治政府の成立を示した。同年3月に「五箇条の御誓文」を発布。「明治天皇」を中心とした新体制の国政が始まった。

6. まとめ

長州藩士・薩摩藩士を中心とする「尊王攘夷派」の若き志士達(薩長土肥の下級武士⇒長州:吉田松陰・桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作・山県有朋・伊藤博文・井上薫、薩摩:西郷隆盛·大久保利光、土佐:坂本龍馬・板垣退助・後藤象二郎、備前:大隈重信・江藤新平)が、幕府や佐幕派の勢力の弾圧にも屈せず、戊辰戦争で江戸幕府を倒し、維新を成し遂げた。この明治維新があってこそ、欧米列強による日本の植民地化を防ぎ、また近代化の扉を開き、今日の繁栄を築いた。
  1. 江戸時代は身分制度の厳しい封建社会で、庶民は貧しく苦しい生活を強いられていた。
  2. ペリー来航をきっかけに高まる倒幕運動
    1853年アメリカのペリーは、4隻の艦隊で突如浦賀に来航し開国を迫った。江戸幕府は1854年「日米和親条約」を締結。
  3. 大政奉還により、天皇に政権を返上
    ペリーの来航をきっかけに、日本国内では「攘夷派」「開国推進派」とで対立。「尊王攘夷」の機運が高まる。また佐幕派と倒幕派が対立を深め、不安定な情勢となっていった。
    条約締結で江戸幕府の権威が失墜するなか、開国と倒幕で志を同じくした薩摩藩と長州藩は1866年「薩長同盟」を締結。江戸幕府も武力で長州藩を征伐しようと試みるが、戦況は幕府側に不利に。15代将軍徳川慶喜は高まる倒幕運動を鑑みて、1867年「大政奉還」を行い、江戸幕府に終止符を打った。
    しかし大政奉還では実質的には徳川家が政治の実権を握っていたため、徳川家排除の勢いがまって行った。
  4. 新政府の樹立と戊辰戦争
    1867年、発言力を強めていた薩摩藩や長州藩が中心となり「王政復古」を宣言。これに旧幕府側は激怒。そして1868年「戊辰戦争」へ突入。新政府軍と旧幕府軍が対立し1年4ヵ月にも及ぶ激しい戦いが繰り広げられた。
    徳川慶喜は新政府に従う姿勢を見せ、旧幕臣「勝海舟」と新政府軍「西郷隆盛」の交渉で1868年無血開城となった。しかし旧幕臣達はあくまで抵抗を続け徐々に北へ、1869年5月に降伏。新政府が全国を掌握。
  5. 明治政府の成立
    1868年1月、朝廷と新政府は、各国公使に向けても「王政復古」を通告し、対外的にも明治政府の成立を示した。同年3月に「五箇条の御誓文」を発布。「明治天皇」を中心とした新体制の国政が始まった。
  6. まとめ
    長州藩士・薩摩藩士を中心とする「尊王攘夷派」の若き志士達(薩長土肥の下級武士⇒長州:吉田松陰・桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作・山県有朋・伊藤博文・井上薫、薩摩:西郷隆盛·大久保利光、土佐:坂本龍馬・板垣退助・後藤象二郎、備前:大隈重信・江藤新平)が、幕府や佐幕派の勢力の弾圧にも屈せず、戊辰戦争で江戸幕府を倒し、維新を成し遂げた。この明治維新があってこそ、欧米列強による日本の植民地化を防ぎ、また近代化の扉を開き、今日の繁栄を築いた。

私達が教わって来ている明治維新の年表

欧米によるアジア植民地化:1757-1907
アヘン戦争:1839.9-1842.89

最初に:明治維新とは、の結論を書く

最初に

明治維新とは

の結論を書く

維新はカバールと少数の人間によって起こされたクーデター

カバールはアジア地域の植民地化を進めていく中、「愛和なワンネス社会を築いて極めて高い波動を発していた江戸徳川幕府」がともかく目障りであり、潰す機会を狙っていた。

そこに一生日の目を見ない環境に身を置いていた「外様薩長の下級武士および下級公家」 が自分達が権力者になることを目論んで動き出した。それをカバールが目ざとく察知し、欧米各国の手下を使って支援させた。

下層階級ゆえ真っ当な教育を受けて来たとは言い難く経験も未熟な彼ら若者達は、にわか仕立ての水戸学だけを頼りに「尊皇攘夷倒幕」を主張し、その名分で天皇とテロと嘘を最大限利用してクーデターを起こし、260年も続いて来た江戸ワンネス社会を転覆させた。彼らが手段として用いたテロは、どんな理由であれ絶対に容認できない悪行である。

実は彼らが名分として挙げて来た尊王という精神を、彼らはみじんも持っていない。それは御所を攻撃し天皇を拉致しようとしたことからも明らかである。もう一つの名分である攘夷に関しても、権力を握ったのちに豹変して攘夷とは真逆の脱亜入欧に走ったことから、それらは単なる方便であり、彼らは何の信条も持っておらず、彼らの目的は「倒幕をして下層階級の自分達が権力者になること」それだけであったのだ。

権力を勝ち取った彼らはその後日本の中枢に居座り続け、その子孫達は150年経った今日に至るまでカバールの手下として私達を支配し続けている。そして明治維新がテロを手段としたクーデターであったことを隠すために、江戸時代は何から何まで間違っており、野蛮で遅れていたと全否定し、徹底して隠蔽/捏造された嘘の歴史を小説や映画などで広めた。

日本は見かけ上は他のアジアの国ような植民地になってはいないが、維新後カバールの金融システムの傘下に入り、かつ中枢にカバールの手下を据えることで実質植民地化された。

その後もカバールとその手下達によって、大東亜戦争の敗北・人類初の原爆投下・失われた20年と言われる長期不況・東日本大震災、などが引き起こされ、加えて原発設置・食品添加物や遺伝子組み換え等の有害成分の規制緩和・ケムトレイルなど、彼らにとって目障りな日本列島・日本人の波動を低く押さえる方策がとられ続けて来ている。

カバールはアジア地域の植民地化を進めていく中、「愛和なワンネス社会を築いて極めて高い波動を発していた江戸徳川幕府」がともかく目障りであり、潰す機会を狙っていた。

そこに一生日の目を見ない環境に身を置いていた「外様薩長の下級武士および下級公家」 が自分達が権力者になることを目論んで動き出した。それをカバールが目ざとく察知し、欧米各国の手下を使って支援させた。

下層階級ゆえ真っ当な教育を受けて来たとは言い難く経験も未熟な彼ら若者達は、にわか仕立ての水戸学だけを頼りに「尊皇攘夷倒幕」を主張し、その名分で天皇とテロと嘘を最大限利用してクーデターを起こし、260年も続いて来た江戸ワンネス社会を転覆させた。彼らが手段として用いたテロは、どんな理由であれ絶対に容認できない悪行である。

実は彼らが名分として挙げて来た尊王という精神を、彼らはみじんも持っていない。それは御所を攻撃し天皇を拉致しようとしたことからも明らかである。もう一つの名分である攘夷に関しても、権力を握ったのちに豹変して攘夷とは真逆の脱亜入欧に走ったことから、それらは単なる方便であり、彼らは何の信条も持っておらず、彼らの目的は「倒幕をして下層階級の自分達が権力者になること」それだけであったのだ。

権力を勝ち取った彼らはその後日本の中枢に居座り続け、その子孫達は150年経った今日に至るまでカバールの手下として私達を支配し続けている。そして明治維新がテロを手段としたクーデターであったことを隠すために、江戸時代は何から何まで間違っており、野蛮で遅れていたと全否定し、徹底して隠蔽/捏造された嘘の歴史を小説や映画などで広めた。

日本は見かけ上は他のアジアの国ような植民地になってはいないが、維新後カバールの金融システムの傘下に入り、かつ中枢にカバールの手下を据えることで実質植民地化された。

その後もカバールとその手下達によって、大東亜戦争の敗北・人類初の原爆投下・失われた20年と言われる長期不況・東日本大震災、などが引き起こされ、加えて原発設置・食品添加物や遺伝子組み換え等の有害成分の規制緩和・ケムトレイルなど、彼らにとって目障りな日本列島・日本人の波動を低く押さえる方策がとられ続けて来ている。

教科書と異なる維新情報が満ち溢れている

明治維新に関して教科書と異なる情報は上記の例のようにごまんとあり、 その中には、史実を誠実に調べ上げて書かれたものが少なくありません。 私達が教わっている明治維新の歴史観はかなり偏向されているのです。

明治維新に関して教科書と異なる情報は上記の例のようにごまんとあり、その中には、史実を誠実に調べ上げて書かれたものが少なくありません。 私達が教わっている明治維新の歴史観はかなり偏向されているのです。

明治維新の真実

明治維新の真実

ウソ1:江戸時代は庶民にとって貧しく苦しい世界であり、それを維新で解放した

ウソ1:江戸時代は庶民にとって貧しく苦しい世界であり、それを維新で解放した

真実:江戸時代は庶民にとって天国だった

江戸時代は庶民にとって天国だった

江戸時代に関しては、情報操作されています。

明治維新を正当化するために、庶民にとっての江戸時代を作為的に悪く言っています。

江戸時代の真実に関しては、

この維新の次に、詳しく説明します。

江戸時代に関しては、情報操作されています。

明治維新を正当化するために、庶民にとっての江戸時代を作為的に悪く言っています。

江戸時代の真実に関しては、この維新の次に、詳しく説明します。

ウソ2:江戸時代は鎖国をしていた

ウソ2:江戸時代は鎖国をしていた

真実:江戸時代は開国をしていた

(予備情報)カバールが支配するために使う手

(※1582年時点で日本のキリシタンは約15万人もいた。)

キリシタン取り締まりと人身売買禁止は不可分の関係

1.先ず宣教師を送り

①宣教師から情報を取る

②宣教師によって外国の文化や価値観を浸透させ、その地の文化を壊していく

③宣教師を殺させ、それを口実に開国、交流を迫る。最後には武力で侵略、征服する

加えて:イエズス会の許可の元、宣教師を使って奴隷を集め、東南アジアで売りさばく

これを家光が知っていたので、島原のキリシタンの一揆を煽り、それを幕府が鎮圧した

後、今後一切禁教とした。そして貿易を制限し、監視下に置いた。

キリシタン弾圧と言われているが、この時代、キリシタン大名が仏教などの他の宗教を徹底的に弾圧していたのだ。長崎南部では破壊焼き討ちの結果、寺社建造物は存在しない。

宣教師方式では無理だと考えたカバールは、日本人が自ら自国の文化を否定する方式に変更。※彼らは商人を巻き込んで、若者に対して西洋の文化・品物・知識がいかに素晴らしいかを時間をかけて洗脳して行った。蘭学、医学

鎖国はしていない、鎖国は明治になって普及した言葉

江戸幕府は、国を閉ざしてはいません。また鎖国令なるものの命令や達し(法令)も存在しません。要するに制度としての鎖国は存在せず、鎖国は完璧な誤りです。鎖国と言う言葉も江戸時代には存在せず、明治期に作られたものです。それで平成29年から、 教科書から「鎖国」の言葉を削除することが決定されました。

江戸期には4つの対外貿易窓口が存在していました。長崎口(出島を幕府が管理)、 対馬口(対朝鮮貿易&朝鮮外交の窓口:対馬藩に管理委託)、薩摩口(対琉球貿易:島津家に管理委託)、蝦夷口(対アイヌ等北方貿易:松前藩に委託)、

ただ、自由な開国は、前頁のような国益を損ねる状態を作り出す危険があるので、制限をして幕府の管理下に置いたということです。

この、いわゆる鎖国と言う状態は命令下の元に一発で作られたものではなく、時間をかけて整えて行ったものです。

江戸幕府は、国を閉ざしてはいません。また鎖国令なるものの命令や達し(法令)も存在しません。要するに制度としての鎖国は存在せず、鎖国は完璧な誤りです。鎖国と言う言葉も江戸時代には存在せず、明治期に作られたものです。それで平成29年から、 教科書から「鎖国」の言葉を削除することが決定されました。

江戸期には4つの対外貿易窓口が存在していました。長崎口(出島を幕府が管理)、 対馬口(対朝鮮貿易&朝鮮外交の窓口:対馬藩に管理委託)、薩摩口(対琉球貿易:島津家に管理委託)、蝦夷口(対アイヌ等北方貿易:松前藩に委託)、

ただ、自由な開国は、前頁のような国益を損ねる状態を作り出す危険があるので、制限をして幕府の管理下に置いたということです。

この、いわゆる鎖国と言う状態は命令下の元に一発で作られたものではなく、時間をかけて整えて行ったものです。

ウソ3:天皇は倒幕を願っていた

ウソ3:天皇は倒幕を願っていた

真実:天皇は公武合体を願っていた

天皇は幕政に影響を与える存在になっており、倒幕など考えてもいなかった

天皇と公家の行動を制限した「禁中並公家諸法度」や天皇の領地を3万石と規定した「禁裏御料」により、朝廷は政治から遠ざけられ幕府に経済依存する存在にまで貶められましたが、幕府に対抗するための朝廷復権運動はかなり早い段階から行われていました。

後光明天皇や霊元天皇によって大嘗祭など一部朝廷儀式や院政などが復活し、 幕末直前には天皇が幕府に口出しするほどの影響力を持つまでになっていました。それで明治維新時代の天皇:孝明天皇は倒幕の意志などまったく持っていなかったのです。それどころか公武合体を望んでいました。それで岩倉具視に邪魔者と見なされ、毒殺されたのです。

天皇と公家の行動を制限した「禁中並公家諸法度」や天皇の領地を3万石と規定した「禁裏御料」により、朝廷は政治から遠ざけられ幕府に経済依存する存在にまで貶められましたが、幕府に対抗するための朝廷復権運動はかなり早い段階から行われていました。

後光明ごこうみょう天皇や霊元天皇によって大嘗祭など一部朝廷儀式や院政などが復活し、 幕末直前には天皇が幕府に口出しするほどの影響力を持つまでになっていました。それで明治維新時代の天皇:孝明こうめい天皇は倒幕の意志などまったく持っていなかったのです。それどころか公武合体を望んでいました。それで岩倉具視に邪魔者と見なされ、毒殺されたのです。

ウソ4:薩長土肥の倒幕で日本は開国した

ウソ4:薩長土肥の倒幕で日本は開国した

真実:幕府が開国を進めていた

開国を目指していたのは幕府側、それを潰しにかかっていたのが薩長土肥

近代日本を作ったのは薩長ではない、これは維新最大の許しがたいウソです。

まさよし開国に踏み切っていたのは徳川幕府の阿部正弘、堀田正睦、井伊直弼等であり、鎖国を終わらせたくないと攘夷にこだわったのは孝明天皇であり薩長だったのです。つまり明治維新を始動させたのは徳川幕府であり、鎖国の存続、攘夷による江戸時代の継続を望んだのは薩長土の倒幕グループだったのです。

この時期、薩長は攘夷論者だった孝明天皇を奉じた攘夷論であり、実際に外国勢と戦争を起こしています。また京都で薩摩や土佐の攘夷論者がテロを起こしています。

幕府阿部の開国への種々の大改革は明治を作る上での基礎となっています。また阿部は海外派遣を提唱、彼の死の2年後の1860年に、幕府は咸臨丸で勝海舟・福沢諭吉を渡米させています。加えて1862年に榎本武揚・西周・赤松則良・津田真道等をオランダに留学させています。

近代日本を作ったのは薩長ではない、これは維新最大の許しがたいウソです。

開国に踏み切っていたのは徳川幕府の阿部正弘、堀田正睦まさよし、井伊直弼等であり、鎖国を終わらせたくないと攘夷にこだわったのは孝明天皇であり薩長だったのです。つまり明治維新を始動させたのは徳川幕府であり、鎖国の存続、攘夷による江戸時代の継続を望んだのは薩長土の倒幕グループだったのです。

この時期、薩長は攘夷論者だった孝明天皇を奉じた攘夷論であり、実際に外国勢と戦争を起こしています。また京都で薩摩や土佐の攘夷論者がテロを起こしています。

幕府阿部の開国への種々の大改革は明治を作る上での基礎となっています。また阿部は海外派遣を提唱、彼の死の2年後の1860年に、幕府は咸臨丸で勝海舟・福沢諭吉を渡米させています。加えて1862年に榎本武揚たけあき西周にしあまね・赤松則良のりよし・津田真道まさみち等をオランダに留学させています。

ウソ5:松下村塾は吉田松陰が開いた私塾、若き尊王攘夷派を育てた

ウソ5:松下村塾は吉田松陰が開いた私塾、若き尊王攘夷派を育てた

真実:松下村塾を主宰していたのは叔父の玉木文之進

松陰は塾生の単なる若者頭

松下村塾はテロリストの若者の集まり

幕府に代わって朝廷を持ち上げようとする動きが出て来ました。その動きを作って行ったのが長州藩に出来た松下村塾と呼ばれる所に集まった若者達であり、その若者頭が吉田松陰でした。

松陰は長州の下級武士。陽明学者である叔父の玉木文之進が1842に開催主宰し、後に外叔父の久保五郎左衛門が継承した松下村塾に1856から世話になり教育を受けました。松陰が五郎左衛門から引き継いだのは1857.11から厳囚になった1858.12までの短期間であり、松陰が松下村塾を開催し若者を育てたという事実は全くありません。引き継いだ期間中に年下の者達に自分の過激な信念を植え付けた、というのが真相です。

彼らがよりどころにしたのは水戸学。彼らの思想は開国維新ではなく「攘夷(毛唐をやっつけろ)」 松陰はことあるごとに暗殺を主張し、長州藩が手を焼く程のテロリストだったのです。彼らは未だ社会経験も足りない若造の集まりでした。昔の若者は早熟で立派だったと持ち上げるのは買いかぶり過ぎであり 「年齢相応の未熟な考えしか持っていない」と考えるのが妥当です。

彼らの年齢は、吉田松陰が29歳で斬首で死んだ1859年時点で

・前原一誠:25歳 ・入江九一:22歳 ・山県有朋:21歳 ・高杉晋作:20歳 ・久坂玄瑞(げんずい):19歳 ・伊藤博文:18歳 ・吉田稔麿(としまろ):18歳 ・品川弥二郎:17歳 ・山田顕義(よしあき):16歳

< 要するに血の気の多い危険思想を持った若者の集まり >

なお参考までにこの時、桂小五郎は26歳、西郷隆盛は31歳、岩倉具視は34歳でした。

幕府に代わって朝廷を持ち上げようとする動きが出て来ました。その動きを作って行ったのが長州藩に出来た松下村塾と呼ばれる所に集まった若者達であり、その若者頭が吉田松陰でした。

松陰は長州の下級武士。陽明学者である叔父の玉木文之進が1842に開催主宰し、後に外叔父の久保五郎左衛門が継承した松下村塾に1856から世話になり教育を受けました。松陰が五郎左衛門から引き継いだのは1857.11から厳囚になった1858.12までの短期間であり、松陰が松下村塾を開催し若者を育てたという事実は全くありません。引き継いだ期間中に年下の者達に自分の過激な信念を植え付けた、というのが真相です。

彼らがよりどころにしたのは水戸学。彼らの思想は開国維新ではなく「攘夷(毛唐をやっつけろ)」 松陰はことあるごとに暗殺を主張し、長州藩が手を焼く程のテロリストだったのです。彼らは未だ社会経験も足りない若造の集まりでした。昔の若者は早熟で立派だったと持ち上げるのは買いかぶり過ぎであり 「年齢相応の未熟な考えしか持っていない」と考えるのが妥当です。

彼らの年齢は、吉田松陰が29歳で斬首で死んだ1859年時点で

・前原一誠:25歳 ・入江九一:22歳 ・山県有朋:21歳 ・高杉晋作:20歳 ・久坂玄瑞(げんずい):19歳 ・伊藤博文:18歳 ・吉田稔麿(としまろ):18歳 ・品川弥二郎:17歳 ・山田顕義(よしあき):16歳

< 要するに血の気の多い危険思想を持った若者の集まり >

なお参考までにこの時、桂小五郎は26歳、西郷隆盛は31歳、岩倉具視は34歳でした。

ウソ6:ペリーは黒船4隻で来た

ウソ6:ペリーは黒船4隻で来た

太平の眠りを覚ます蒸気船
たった4杯で夜も眠れず

真実:ペリーは黒船2隻で来た

2隻のみ蒸気船、後の2隻は帆船であった

こんなことはどうでも良い話ではありますが、

来航した黒船は全て蒸気船であると思い込んでいる人がほとんど。しかし真実は上左図の通り、外輪船は旗艦サスケハナとミシシッピの2隻のみで、後は帆船です。こんな嘘にも、江戸中の人々を恐怖のどん底に落とし込んだということを強調する意図が見え隠れします。

なお、黒いのは現代船のような金属の船体を黒く塗装したものではなく、 木製の船の防水と防腐のために塗ったコールタールが黒色であったためです。

こんなことはどうでも良い話ではありますが、

来航した黒船は全て蒸気船であると思い込んでいる人がほとんど。しかし真実は上左図の通り、外輪船は旗艦サスケハナとミシシッピの2隻のみで、後は帆船です。こんな嘘にも、江戸中の人々を恐怖のどん底に落とし込んだということを強調する意図が見え隠れします。

なお、黒いのは現代船のような金属の船体を黒く塗装したものではなく、 木製の船の防水と防腐のために塗ったコールタールが黒色であったためです。

ウソ7:日本植民地化の日米修好通商条約を勝手に結んだ井伊直弼は犯罪人

ウソ7:日本植民地化の日米修好通商条約を勝手に結んだ井伊直弼は犯罪人

真実:岩倉具視の策略で井伊直弼は日米修好通商条約を結んだ

井伊直弼は岩倉具視の策略にはめられて条約を結んだ

岩倉具視は井伊直弼に「必ず勅許(天皇の許可)がもらえるように天皇に話はつけてあるから、安心して締結するように」と伝えていました。

井伊は勅許が出るまで調印する気はなかったのですが、岩倉からの使いが 「勅許がおりた」と伝えたので調印に踏み切りました。しかし勅許は降りていなかったのです。

この後岩倉具視は、井伊直弼が勅許が無いのに勝手に締結したと非難し、締結の責任の全てを井伊直弼に負わせたのです。

岩倉具視は井伊直弼に「必ず勅許ちょっきょ(天皇の許可)がもらえるように天皇に話はつけてあるから、安心して締結するように」と伝えていました。

井伊は勅許が出るまで調印する気はなかったのですが、岩倉からの使いが 「勅許がおりた」と伝えたので調印に踏み切りました。しかし勅許は降りていなかったのです。

この後岩倉具視は、井伊直弼が勅許が無いのに勝手に締結したと非難し、締結の責任の全てを井伊直弼に負わせたのです。

ウソ8:水戸藩士が孝明天皇に戊午の密勅を出させた

ウソ8:水戸藩士が孝明天皇に戊午の密勅を出させた

「戊午」とは、安政5年の干支が「戊午(つちのえうま)」であったことに由来 「密勅」とは、正式な手続きを踏まずに出された勅書 (天皇の指示を書いたもの)

真実:水戸藩士が有力公家に不正な戊午の密勅を出させた

戊午の密勅は正式なものではない、内容は倒幕を意図したもの

孝明天皇の勅許が得られぬまま日米修好通商条約を調印した直弼の対応に怒った水戸藩と薩長は、当時隠居させられていた岩倉具視の政治力に目を付けました。岩倉は表舞台に出ることは出来なかったので、裏から有力公家を動かしました。その結果1867年10月13日、水戸藩に「戊午(討幕)の密勅」が下されたのです。密の意は、太政官の主要構成員の署名がなされていない、即ち正式な勅許ではないという意味です。これを先ず水戸藩に下し2日後に幕府へ、そして他の藩には水戸藩が写しを伝達して幕府の開国政策を非難し幕政改革をするようにとの命を下しました。

密勅が幕府を飛び越して直接水戸藩に下されたこと、しかもその内容を水戸藩から諸藩に伝達せよ、という命はいずれも異例なことでした。それで幕府は「水戸藩が外様大名や浪士と結託し朝廷を利用して幕府を転覆させようとしている」と受け取ったのです。幕府は即座に水戸藩に諸藩伝達を禁じました。またこの密勅は、大老井伊直弼をして安政の大獄の弾圧を決意させる一因ともなったのです。

孝明天皇の勅許が得られぬまま日米修好通商条約を調印した直弼の対応に怒った水戸藩と薩長は、当時隠居させられていた岩倉具視の政治力に目を付けました。岩倉は表舞台に出ることは出来なかったので、裏から有力公家を動かしました。その結果1867年10月13日、水戸藩に「戊午(討幕)の密勅」が下されたのです。密の意は、太政官の主要構成員の署名がなされていない、即ち正式な勅許ではないという意味です。これを先ず水戸藩に下し2日後に幕府へ、そして他の藩には水戸藩が写しを伝達して幕府の開国政策を非難し幕政改革をするようにとの命を下しました。

密勅が幕府を飛び越して直接水戸藩に下されたこと、しかもその内容を水戸藩から諸藩に伝達せよ、という命はいずれも異例なことでした。それで幕府は「水戸藩が外様大名や浪士と結託し朝廷を利用して幕府を転覆させようとしている」と受け取ったのです。幕府は即座に水戸藩に諸藩伝達を禁じました。またこの密勅は、大老井伊直弼をして安政の大獄の弾圧を決意させる一因ともなったのです。

ウソ9:単に倒幕の密勅への報復というだけで大勢を処刑した安政の大獄実施者井伊直弼は極悪人

ウソ9:単に倒幕の密勅への報復というだけで大勢を処刑した安政の大獄実施者井伊直弼は極悪人

真実:幕府にとって脅威となる攘夷派テロの弾圧の意図で粛清を行った

安政の大獄は、反開国倒幕テロ勢力の粛清であった

日米修好通商条約締結後、薩長は松下村塾の若者を使って日本中の若者や庶民に「倒幕させないと日本が滅ぶ」と幕府批判をして回らせました。戊午の密勅への対応ということで、その若者達を含め攘夷派を力ずくで取り締まり100名以上を投獄、死刑8名の処分を行ったのが「安政の大獄」です。

吉田松陰は幕府転覆を堂々と主張し井伊の暗殺も主張していました。大獄時松陰は、老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画し長州藩に捕縛投獄されていたのです。幕府は松陰を江戸へ送致させ、斬首刑にしました。

井伊直弼が進める開国政策は日本が置かれた立場からして適切であったのですが、その開国政策にとって水戸学を核とする攘夷テロ思想は危険思想でした。 それ故、安政の大獄は倒幕の密勅への報復と言う名を借りて、開国に反対する攘夷派テロの弾圧を行った、というのが真相です。

日米修好通商条約締結後、薩長は松下村塾の若者を使って日本中の若者や庶民に「倒幕させないと日本が滅ぶ」と幕府批判をして回らせました。戊午の密勅への対応ということで、その若者達を含め攘夷派を力ずくで取り締まり100名以上を投獄、死刑8名の処分を行ったのが「安政の大獄」です。

吉田松陰は幕府転覆を堂々と主張し井伊の暗殺も主張していました。大獄時松陰は、老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画し長州藩に捕縛投獄されていたのです。幕府は松陰を江戸へ送致させ、斬首刑にしました。

井伊直弼が進める開国政策は日本が置かれた立場からして適切であったのですが、その開国政策にとって水戸学を核とする攘夷テロ思想は危険思想でした。 それ故、安政の大獄は倒幕の密勅への報復と言う名を借りて、開国に反対する攘夷派テロの弾圧を行った、というのが真相です。

ウソ10:水戸藩の志士が桜田門外の変を起こした

ウソ10:水戸藩の志士が桜田門外の変を起こした

真実:水戸藩脱藩者が桜田門外の変を起こした

水戸藩「脱藩者」が起こしたテロが、桜田門外の変

井伊直弼は勅許返納の沙汰を朝廷から発給してもらい、水戸藩主徳川斉昭に返納を迫りました。斉昭は返納やむなしとして朝廷命の厳守を自藩の過激派家臣達に申し渡しました。それを受け入れられない過激派水戸藩士は脱藩し、薩摩藩士と共謀して井伊直弼を暗殺しました。これが桜田門外の変であり、それは水戸藩の意志で行ったものではありません。加えて老中安藤信正の暗殺未遂事件(坂下門外の変)も起こしました。この事件を契機に安藤は老中失脚となりました。

これら一連の事件は幕府の権威を一気に失墜させました。これは幕府の開国政策の終焉を意味し、以降、攘夷が国論となって行くのです。

しかし今更開国を逆行できる訳もなく、幕府は軍制改革を実施し、歩兵隊を作り、 京都守護職を新設して内外の守りを固めました。また参勤交代の義務を軽くし、各藩が警備をより強化できるようにしました。また大名達の規制を緩和し、日本全体の防衛力の強化を図って行きました。

井伊直弼は勅許返納の沙汰を朝廷から発給してもらい、水戸藩主徳川斉昭なりあきに返納を迫りました。斉昭は返納やむなしとして朝廷命の厳守を自藩の過激派家臣達に申し渡しました。それを受け入れられない過激派水戸藩士は脱藩し、薩摩藩士と共謀して井伊直弼を暗殺しました。これが桜田門外の変であり、それは水戸藩の意志で行ったものではありません。加えて老中安藤信正の暗殺未遂事件(坂下門外の変)も起こしました。この事件を契機に安藤は老中失脚となりました。

これら一連の事件は幕府の権威を一気に失墜させました。これは幕府の開国政策の終焉を意味し、以降、攘夷が国論となって行くのです。

しかし今更開国を逆行できる訳もなく、幕府は軍制改革を実施し、歩兵隊を作り、 京都守護職を新設して内外の守りを固めました。また参勤交代の義務を軽くし、各藩が警備をより強化できるようにしました。また大名達の規制を緩和し、日本全体の防衛力の強化を図って行きました。

ウソ11:新選組はテロ集団

ウソ11:新選組はテロ集団

真実:新選組はテロ集団を取り締まる組織

京は薩長土の攘夷過激派による暗殺の嵐が吹き荒れた

1862年に入ると、京は尊皇攘夷、天誅をわめく暗殺の嵐が吹き荒れました。

長州のリーダー格が桂小五郎であり、吉田松陰の徒党である高杉・久坂・井上・ 寺島・来島・赤根・中村・杉山と言った、長州藩が厄介者としていた過激派達が動いていました。彼らは京で略奪、放火、暗殺というテロ行為を意識して積極的に展開しましたが、そのやり口は実に凄惨なものでした。

テロに走ったのは、岡田以蔵のような土佐藩士や、田中新兵衛・中村半次郎等の薩摩藩士でした。薩摩の過激派「誠忠組」は、佐幕派の関白九条尚忠と京都所司代を襲撃するべく寺田屋に集結、薩摩藩主の父島津久光は中止を命じますが誠忠組はそれを拒否、怒った久光が「上意討ち」を命令、これがかの有名な寺田屋事件です。 

土佐の攘夷グループの中心は武市半平太、彼は土佐勤皇党を結成し吉田東洋を暗殺。半平太は岡田以蔵を使ってテロを政策実現の手段としました。

1862年に入ると、京は尊皇攘夷、天誅をわめく暗殺の嵐が吹き荒れました。

長州のリーダー格が桂小五郎であり、吉田松陰の徒党である高杉・久坂・井上・ 寺島・来島・赤根・中村・杉山と言った、長州藩が厄介者としていた過激派達が動いていました。彼らは京で略奪、放火、暗殺というテロ行為を意識して積極的に展開しましたが、そのやり口は実に凄惨なものでした。

テロに走ったのは、岡田以蔵のような土佐藩士や、田中新兵衛・中村半次郎等の薩摩藩士でした。薩摩の過激派「誠忠組」は、佐幕派の関白九条尚忠と京都所司代を襲撃するべく寺田屋に集結、薩摩藩主の父島津久光は中止を命じますが誠忠組はそれを拒否、怒った久光が「上意討ち(主君の命を受けて罪人を討つこと)」を命令、これがかの有名な寺田屋事件です。

土佐の攘夷グループの中心は武市たけち半平太、彼は土佐勤皇党を結成し吉田東洋を暗殺。半平太は岡田以蔵を使ってテロを政策実現の手段としました。

攘夷派テロ集団取り締まりのために結成されたのが新選組

幕府は、攘夷グループの京都でのテロに対抗するため、1862.9会津藩主松平容保(かたもり)を京都守護職に任命。1863.8.18天皇の下命で会津・薩摩・淀藩が兵を動かし、京都から長州を排除しました(八月十八日の政変)。

そして容保は1863.9、京都市中警護のために新選組を結成しました。

池田屋事件は、20~30名のテロリストが、御所焼き討ち・慶喜/容保の暗殺・天皇拉致を企てていたのを、新選組が事前に防いだ事件。新選組はこの事件で一気に知名度を上げ、存在感を高めました。容保は新選組に500両の報奨金を与える旨を伝達しています。

新選組の見回り組が龍馬を暗殺(近江屋事件)したのは、龍馬が薩長同盟を仲介するなどで、幕府にとっての危険人物として認識されていたためです。

幕府は、攘夷グループの京都でのテロに対抗するため、1862.9会津藩主松平容保(かたもり)を京都守護職に任命。1863.8.18天皇の下命で会津・薩摩・淀藩が兵を動かし、京都から長州を排除しました(八月十八日の政変)。

そして容保かたもりは1863.9、京都市中警護のために新選組を結成しました。

池田屋事件は、20~30名のテロリストが、御所焼き討ち・慶喜/容保かたもりの暗殺・天皇拉致を企てていたのを、新選組が事前に防いだ事件。新選組はこの事件で一気に知名度を上げ、存在感を高めました。容保は新選組に500両の報奨金を与える旨を伝達しています。

新選組の見回り組が龍馬を暗殺(近江屋事件)したのは、龍馬が薩長同盟を仲介するなどで、幕府にとっての危険人物として認識されていたためです。

テロ集団長州は公式に朝敵となる

池田屋事件から2か月後弱、京から排除された長州は「禁門の変」を起こします。

長州勢は一時御所内部に攻め入り、御所に発砲・砲撃をしました。我が国の歴史上、御所が本格的に攻撃された唯一の事例。それを行ったのがなんと、尊王の名においてテロを繰り広げて来た長州人だったのです。これをもって朝廷は長州を公式に朝敵とし、この朝敵を討つべく西郷隆盛を参謀として「第一次長州征伐」を起こしました。

このような逆賊長州が、今後「尊王攘夷」をうたって天皇を利用し、権力を手中するのですから、歴史とは不可解なものです。

池田屋事件から2か月後弱、京から排除された長州は「禁門の変」を起こします。

長州勢は一時御所内部に攻め入り、御所に発砲・砲撃をしました。我が国の歴史上、御所が本格的に攻撃された唯一の事例。それを行ったのがなんと、尊王の名においてテロを繰り広げて来た長州人だったのです。これをもって朝廷は長州を公式に朝敵とし、この朝敵を討つべく西郷隆盛を参謀として「第一次長州征伐」を起こしました

このような逆賊長州が、今後「尊王攘夷」をうたって天皇を利用し、権力を手中するのですから、歴史とは不可解なものです。

ウソ12:薩摩藩は尊王攘夷を掲げて明治維新を達成した

ウソ12:薩摩藩は尊王攘夷を掲げて明治維新を達成した

真実:薩摩藩は攘夷を放棄している

薩摩は薩英戦争に負けて、攘夷を放棄している

薩摩藩は最初は公武合体論でした

しかし薩摩は、1862年に起きた生麦事件(藩主の父島津久光の駕籠に馬に乗ったまま近づいた英国人3人を斬った事件)の解決及びその賠償を迫る英国と、鹿児島湾で戦闘に入ったのです。英艦7艦の攻撃で薩摩琉球船は焼失し薩摩軍はぼこぼこにされました。

(その後薩摩は、久光ではなく西郷がリーダーシップをとる体制に変わる)

この時軍事力の差をまざまざと見せつけられ、また琉球から薩摩に戻ったジョン万次郎から話を聞いて攘夷は無理と悟り、薩摩は開国を認めざるを得なくなったのです。

イギリスはこの時の薩摩軍の戦闘振りを高く評価し、以降、グラバーを介して薩摩と関係を深めて行くことになります。

薩摩藩は最初は公武合体論でした

しかし薩摩は、1862年に起きた生麦事件(藩主の父島津久光の駕籠に馬に乗ったまま近づいた英国人3人を斬った事件)の解決及びその賠償を迫る英国と、鹿児島湾で戦闘に入ったのです。英艦7艦の攻撃で薩摩琉球船は焼失し薩摩軍はぼこぼこにされました。

(その後薩摩は、久光ではなく西郷がリーダーシップをとる体制に変わる)

この時軍事力の差をまざまざと見せつけられ、また琉球から薩摩に戻ったジョン万次郎から話を聞いて攘夷は無理と悟り、薩摩は開国を認めざるを得なくなったのです

イギリスはこの時の薩摩軍の戦闘振りを高く評価し、以降、グラバーを介して薩摩と関係を深めて行くことになります。

ウソ13:長州藩は尊王攘夷を掲げて明治維新を達成した

ウソ13:長州藩は尊王攘夷を掲げて明治維新を達成した

真実:長州藩は攘夷を放棄している

長州は四国戦争に負けて、攘夷を放棄している

長州の尊王攘夷運動をリードしたのは吉田松陰とその弟子達であり、水戸学の影響を強く受けました。水戸学の本質は尊皇であり、西欧列強のアジア進出に対する危機意識と結びついて次第に尊皇攘夷論に変質して行きました。

1863-64年に外国船(米商船・仏艦・蘭艦)に砲撃を開始し、攘夷戦争に踏み切りました。米艦が下関に来襲し、庚申丸と壬戊丸が撃沈、砲台破壊。翌年四国連合艦隊(英艦8、仏艦3、蘭艦4、米艦1)による下関砲撃が行われ、すべての砲台が破壊されて敗戦。それで長州は攘夷は無理と悟り、開国を認めざるを得なくなったのです。

イギリスはこの時の長州軍の戦闘振りを高く評価し、以降、グラバーを介して長州と関係を深めていくことになります。

長州の尊王攘夷運動をリードしたのは吉田松陰とその弟子達であり、水戸学の影響を強く受けました。水戸学の本質は尊皇であり、西欧列強のアジア進出に対する危機意識と結びついて次第に尊皇攘夷論に変質して行きました。

1863-64年に外国船(米商船・仏艦・蘭艦)に砲撃を開始し、攘夷戦争に踏み切りました。米艦が下関に来襲し、庚申丸と壬戊丸じんじゅつまるが撃沈、砲台破壊。翌年四国連合艦隊(英艦8、仏艦3、蘭艦4、米艦1東インド会社の護衛艦)による下関砲撃が行われ、すべての砲台が破壊されて敗戦。それで長州は攘夷は無理と悟り、開国を認めざるを得なくなったのです。

イギリスはこの時の長州軍の戦闘振りを高く評価し、以降、グラバーを介して長州と関係を深めていくことになります。

ウソ14:倒幕のために薩長同盟をした

ウソ14:倒幕のために薩長同盟をした

真実:経済取引として薩長同盟をした

倒幕ではなく、経済取引が目的

薩長同盟の始まりは、グラバーが薩摩に売却した武器弾薬を、朝敵となったことで最新鋭の兵器が欲しくても手に入れられない長州に流し、代わりに飢饉で食料不足だった薩摩に長州から米等穀類を輸出させる、という経済取引でした。

両者の間を結んだのが坂本龍馬です。当時日本の正式な政府は幕府だったので、その敵である長州との武器取引は通商条約上出来ませんでした。それ故、武器購入は薩摩名義で行われました。それを薩摩のバックアップを受けた坂本龍馬の亀山社中が斡旋したのです。武器輸送も薩摩藩の胡蝶丸と開門丸によって行われました。

これ以降、薩長は第一次長州征伐で悪化していた関係を改善して行きます。

薩長同盟は六か条からなりますが、そもそもその内容は「長州に貼られた朝敵のレッテル剥がしを薩摩が行う」というもので、倒幕のための軍事同盟とは全く関係が無いものなのです。

薩長同盟の始まりは、グラバーが薩摩に売却した武器弾薬を、朝敵となったことで最新鋭の兵器が欲しくても手に入れられない長州に流し、代わりに飢饉で食料不足だった薩摩に長州から米等穀類を輸出させる、という経済取引でした。

両者の間を結んだのが坂本龍馬です。当時日本の正式な政府は幕府だったので、その敵である長州との武器取引は通商条約上出来ませんでした。それ故、武器購入は薩摩名義で行われました。それを薩摩のバックアップを受けた坂本龍馬の亀山社中が斡旋したのです。武器輸送も薩摩藩の胡蝶丸と開門丸によって行われました。

これ以降、薩長は第一次長州征伐で悪化していた関係を改善して行きます。

薩長同盟は六か条からなりますが、そもそもその内容は「長州に貼られた朝敵のレッテル剥がしを薩摩が行う」というもので、倒幕のための軍事同盟とは全く関係が無いものなのです。

ウソ15:坂本龍馬は倒幕のために薩長同盟を後押しした

ウソ15:坂本龍馬は倒幕のために薩長同盟を後押しした

真実:坂本龍馬は亀山社中の商売のために薩長同盟を後押しした

亀山社中の武器商売が目的

坂本龍馬は土佐の豪商才谷家の分家である坂本家の次男であり、非常に裕福な商人上がりの郷士(武士の下層に位置する農村に土着した武士)でした。龍馬が脱藩して活動したと言われていますが、元々藩士でないものが脱藩することなどあり得ないことです。

龍馬は1862年、暗殺するために勝海舟のもとを訪れましたが、勝の幅広い見識に感動し、勝に弟子入りしたのです。

勝の蟄居中、勝が龍馬の庇護を西郷隆盛に要請してくれたお陰で龍馬は薩摩藩の庇護下に入り、そこで亀山社中を立ち上げています。

歴史学者の龍馬への最近の評価は「薩長同盟への龍馬の働きは政治的なものと言うよりも亀山社中の商売を念頭に置いた経済的なものだった。」というのが主流になっています。

坂本龍馬は土佐の豪商才谷さいたに家の分家である坂本家の次男であり、非常に裕福な商人上がりの郷士(武士の下層に位置する農村に土着した武士)でした。龍馬が脱藩して活動したと言われていますが、元々藩士でないものが脱藩することなどあり得ないことです。

龍馬は1862年、暗殺するために勝海舟のもとを訪れましたが、勝の幅広い見識に感動し、勝に弟子入りしたのです。

勝の蟄居中、勝が龍馬の庇護を西郷隆盛に要請してくれたお陰で龍馬は薩摩藩の庇護下に入り、そこで亀山社中を立ち上げています。

歴史学者の龍馬への最近の評価は「薩長同盟への龍馬の働きは政治的なものと言うよりも亀山社中の商売を念頭に置いた経済的なものだった。」というのが主流になっています。

ウソ16:孝明天皇が死去後に明治天皇が即位

ウソ16:孝明天皇が死去後に明治天皇が即位

真実16:孝明天皇を暗殺後に明治天皇を即位

孝明天皇は毒殺され、明治天皇は天皇家と関係の無い人間に入れ替わっている

孝明天皇は倒幕の意志は全く無く、それどころか公武合体の考え方を持っていました。倒幕の最大の障壁が孝明天皇であったのです。それで岩倉具視はこの天皇が邪魔になり毒殺しました。

そして「南朝が山口県で細々と続いて来ていた」と言う嘘話をでっち上げ、その血を引く子供と言うことで、とある村から「大室寅之助」という子を連れて来て「その子を睦仁親王にすげ替える」と薩長に伝えました。 長州は自分の土地から次の天皇が出るということで納得し、薩摩は南朝の流れだということで納得したのです。

1867.1即位時の天皇は14歳の幼帝、つまり岩倉のロボットであり、この時から岩倉は擬天皇として振る舞うことになります。

孝明天皇は倒幕の意志は全く無く、それどころか公武合体の考え方を持っていました。倒幕の最大の障壁が孝明天皇であったのです。それで岩倉具視はこの天皇が邪魔になり毒殺しました。

そして「南朝が山口県で細々と続いて来ていた」と言う嘘話をでっち上げ、その血を引く子供と言うことで、とある村から「大室寅之助」という子を連れて来て「その子を睦仁親王にすげ替える」と薩長に伝えました。 長州は自分の土地から次の天皇が出るということで納得し、薩摩は南朝の流れだということで納得したのです。

1867.1即位時の天皇は14歳の幼帝、つまり岩倉のロボットであり、この時から岩倉は擬天皇として振る舞うことになります。

ウソ17:徳川慶喜が自分の意志のみで大政奉還を決意

ウソ17:徳川慶喜が自分の意志のみで大政奉還を決意

真実:徳川慶喜は朝敵になることを避けるために大政奉還を決意

朝敵にさせられるのを避けるために大政奉還をした

岩倉具視や薩摩の大久保利通達は、偽りの勅許「倒幕の密勅」を作りました。これは天皇、摂政の署名も無ければ、花押(サイン)もないという偽物。天皇の勅許を偽造する、などは日本において最大の悪行大罪であり、どんな悪人でもこのような発想はしません。しかるに幕府側はまさか偽物を作るなど思ってもいないことなので、 密勅が下ると解釈し、密勅が出されると幕府が朝敵になってしまう(朝廷の側に立つものが正義、勝てば官軍:この観念は室町時代に確立されたもの)のを避けるための策を打ちました。

徳川慶喜は胆や度量をまったく持ち合わせていない人間でしたが、妙に頭の切れる人物でした。慶喜は先手を打って1867年大政奉還に出たのです。これによって倒幕の大義名分を消滅させてしまいました。その裏には、大政奉還を行っても朝廷側に政権運営能力は無いので実権は徳川が握る、という目論みもあったのです。

岩倉具視や薩摩の大久保利通達は、偽りの勅許「倒幕の密勅」を作りました。これは天皇、摂政の署名も無ければ、花押かおう(サイン)もないという偽物。天皇の勅許を偽造する、などは日本において最大の悪行大罪であり、どんな悪人でもこのような発想はしません。しかるに幕府側はまさか偽物を作るなど思ってもいないことなので、 密勅が下ると解釈し、密勅が出されると幕府が朝敵になってしまう(朝廷の側に立つものが正義、勝てば官軍:この観念は室町時代に確立されたもの)のを避けるための策を打ちました。

徳川慶喜はたんや度量をまったく持ち合わせていない人間でしたが、妙に頭の切れる人物でした。慶喜は先手を打って1867年大政奉還に出たのです。これによって倒幕の大義名分を消滅させてしまいました。その裏には、大政奉還を行っても朝廷側に政権運営能力は無いので実権は徳川が握る、という目論みもあったのです。

ウソ18:王政復古は明治天皇の決意

ウソ18:王政復古は明治天皇の決意

真実:王政復古は討幕派の策略で実施

王政復古は、幼帝明治天皇を利用した岩倉・大久保のクーデター

徳川慶喜の大政奉還で情勢が不利なことを悟った討幕派の岩倉具視や大久保利通はクーデターを起こします。1867.12.9、幼い明治天皇を臨席させ「王政復古の大号令:五箇条の御誓文」を発しました。王政復古(明治政府の基本方針)と言い幕府を補佐するながらその実態は、二条家を筆頭とする佐幕派の上級公家と徳川慶喜の排除、そして一部公家と薩長主導の新政権樹立の宣言でした。

その日開かれた三職(総裁、議定·参与)の集まりの小御所会議にて「徳川慶喜に辞官納地(慶喜の内大臣の官位返上、徳川家の領土を朝廷に返還)を求める」 話し合いが行われ、佐幕派の反対が予想されましたが、外の警護をしていた西郷が漏らした「短刀一本あれば方が付く~」の言葉が佐幕派山内容堂らの身の危険を感じさせ、反対者がいない状態で 「辞官納地」の決議がなされました。

このまま行けば王政復古の成立ですが、事はそうは進まなかったのです。

徳川慶喜の大政奉還で情勢が不利なことを悟った討幕派の岩倉具視や大久保利通はクーデターを起こします。1867.12.9、幼い明治天皇を臨席させ「王政復古の大号令:五箇条の御誓文せいもんを発しました。王政復古(明治政府の基本方針)と言い幕府を補佐するながらその実態は、二条家を筆頭とする佐幕派幕府を補佐するの上級公家と徳川慶喜の排除、そして一部公家と薩長主導の新政権樹立の宣言でした。

その日開かれた三職の集まり総裁、議定·参与の小御所会議にて「徳川慶喜に辞官納地(慶喜の内大臣の官位返上、徳川家の領土を朝廷に返還)を求める」 話し合いが行われ、佐幕派の反対が予想されましたが、外の警護をしていた西郷が漏らした「短刀一本あれば方が付く~」の言葉が佐幕派山内容堂らの身の危険を感じさせ、反対者がいない状態で 「辞官納地」の決議がなされました。

このまま行けば王政復古の成立ですが、事はそうは進まなかったのです。

ウソ19:王政復古で明治維新が成立した

ウソ19:王政復古で明治維新が成立した

真実:王政復古は反故にされ明治維新は失敗に終わった

明治維新は失敗していた

1867.12.12、公武合体派軍勢は薩長に御所からの軍勢引き上げを迫ると共に、 薩長側に徳川慶喜の内大臣としての処遇を保証させました。

更に12.16、徳川慶喜は大阪城に米・英・仏・蘭・プロシャ・伊の公使を招集し、 内政不干渉と幕府の外交権保持を承認させました。

その3日後の12.19、慶喜は朝廷に王政復古の大号令の撤回を要求、朝廷は遂に 「徳川政権への大政委任の継続」を承認したのです。これで徳川幕藩体制は維持されることになりました。明治維新は失敗に終わったのです。

更に小御所会議で決定した辞官納地も12.28、慶喜の朝廷からの辞官納地の返書にて骨抜きにしました。王政復古も実質的に消滅したのです。歴史学者達はこの重要な事実を広く教えていません。

1867.12.12、公武合体派軍勢は薩長に御所からの軍勢引き上げを迫ると共に、 薩長側に徳川慶喜の内大臣としての処遇を保証させました。

更に12.16、徳川慶喜は大阪城に米・英・仏・蘭・プロシャ・伊の公使を招集し、 内政不干渉と幕府の外交権保持を承認させました。

その3日後の12.19、慶喜は朝廷に王政復古の大号令の撤回を要求、朝廷は遂に 徳川政権への大政委任の継続」を承認したのです。これで徳川幕藩体制は維持されることになりました。明治維新は失敗に終わったのです。

更に小御所会議で決定した辞官納地も12.28、慶喜の朝廷からの辞官納地の返書にて骨抜きにしました。王政復古も実質的に消滅したのです。歴史学者達はこの重要な事実を広く教えていません。

明治維新は失敗していた

22日には土佐藩邸に松平春嶽と永井尚志が集って原案を作成し、23日・24 日に再び三職会議が召集される(岩倉は欠席)。

ここにおいて、徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜に対する処分的な色彩は全く失われた。

さらに実際の納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議における議論を経て決定するとされた。

この結果は春獄・慶勝によって慶喜にもたらされ、慶喜も承諾。

ここに小御所会議の結果は無意味化し、かえって慶喜を含む諸侯会議派が勢いを得る結果となったのである。

小御所会議で決定したはずの「辞官納地」も、暮れも押し迫った12月28日、慶喜が朝廷からの「辞官納地の諭書(さとししょ)」に対する返書を出すが、

諭書の内容は、

・徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)を認める

・徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主宰する

・諸大名会議で朝廷へ「献上する」費用の分担割合を取りまとめる

というものであり、「辞官納地」は完全に骨抜きにされたのである。

22日には土佐藩邸に松平春嶽しゅんがくと永井尚志なおゆきが集って原案を作成し、23日・24 日に再び三職会議が召集される(岩倉は欠席)。

ここにおいて、徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜に対する処分的な色彩は全く失われた。

さらに実際の納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議における議論を経て決定するとされた。

この結果は春獄・慶勝よしかつによって慶喜にもたらされ、慶喜も承諾。

ここに小御所会議の結果は無意味化し、かえって慶喜を含む諸侯会議派が勢いを得る結果となったのである。

小御所会議で決定したはずの「辞官納地」も、暮れも押し迫った12月28日、慶喜が朝廷からの「辞官納地の諭書(さとししょ)」に対する返書を出すが、

諭書の内容は、

  • 徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)を認める
  • 徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主宰する
  • 諸大名会議で朝廷へ「献上する」費用の分担割合を取りまとめる

というものであり、「辞官納地」は完全に骨抜きにされたのである。

ウソ20:新政府と旧幕府の闘いは旧幕府軍の反発から始まった

ウソ20:新政府と旧幕府の闘いは旧幕府軍の反発から始まった

真実:新政府と旧幕府の闘いは新政府側の西郷隆盛が仕掛けたテロから始まった

薩摩西郷隆盛が江戸で行ったテロ兆発がキッカケで戦争は始まった

倒幕の勅許を偽造したものの、慶喜に大政奉還という先手を打たれ、軍事クーデターを起こして王政復古の大号令を発したものの、再び慶喜の反撃にあって薩長の倒幕計画は挫折した。

この事態を受け、西郷隆盛は岩倉具視の了承を得て赤報隊(カネで雇われた500名程)を組織し、幕府を戦争に引きずり込むために江戸において旗本・御家人をあらゆるテロ(放火・略奪・強姦・強殺)で挑発。毎夜、鉄砲まで持った無頼の徒が徒党を組んで商家に押し入ることをしたのです。この時、夜の江戸から人が消えました。

(実はこの時、西郷はネガαドラコニアンにウオークインされ、人で無しの徒になっていた)

幕府はついに薩摩藩邸焼き討ちを命じました。そして幕府は薩摩に下手人を引き渡さなければこれを討つと宣言してしまいました。薩摩藩はそれを待っていたとばかり一切応じず戦争勃発。これが戊辰戦争のキッカケです。

(後に薩長と岩倉具視は赤報隊を偽官軍として処刑している、つまり用済み使い捨てである。)

倒幕の勅許を偽造したものの、慶喜に大政奉還という先手を打たれ、軍事クーデターを起こして王政復古の大号令を発したものの、再び慶喜の反撃にあって薩長の倒幕計画は挫折した。

この事態を受け、西郷隆盛は岩倉具視の了承を得て赤報隊(カネで雇われた500名程)を組織し、幕府を戦争に引きずり込むために江戸において旗本・御家人をあらゆるテロ(放火・略奪・強姦・強殺)で挑発。毎夜、鉄砲まで持った無頼の徒が徒党を組んで商家に押し入ることをしたのです。この時、夜の江戸から人が消えました。

(実はこの時、西郷はネガαドラコニアンにウオークインされ、人で無しの徒になっていた)

幕府はついに薩摩藩邸焼き討ちを命じました。そして幕府は薩摩に下手人を引き渡さなければこれを討つと宣言してしまいました。薩摩藩はそれを待っていたとばかり一切応じず戦争勃発。これが戊辰ぼしん戦争のキッカケです。

(後に薩長と岩倉具視は赤報隊を偽官軍として処刑している、つまり用済み使い捨てである。)

ウソ21:新政府と旧幕府の闘いで新政府軍が「錦旗」を掲げたことで旧幕府軍は総崩れ

ウソ21:新政府と旧幕府の闘いで新政府軍が「錦旗」を掲げたことで旧幕府軍は総崩れ

真実:新政府と旧幕府の闘いで新政府軍が「偽物の錦旗」を掲げたことで旧幕府軍は総崩れ

偽物の錦旗を掲げた:薩長は自らの権力奪取のため、徹底的に天皇の権威を利用した

1868.1.27鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まりました。幕府側兵力15,000人、薩長側5,000人、幕府側圧倒優位でしたので、この戦争は薩長側の大博打でした。しかし結果は戦闘準備が万端だった薩長側が初戦を勝利したのでした。

決定的だったのは翌日、薩長土側が錦旗を掲げて進軍したことです。錦旗を掲げられたことで幕府軍は朝敵となり、一気に士気が衰えました。それでも反撃の可能性は十分あったのですが、徳川慶喜が開陽丸に乗船し江戸に逃げ帰ってしまったことで、政府軍は完敗してしまいました。

この錦旗は岩倉、大久保らが京の薩摩藩邸で急遽偽造したものです。当時の日本人の感覚からすれば、錦旗を偽造するなどという発想は全く出てこない想像を絶する悪行です。それで旧幕府側は錦旗を本物と認識してしまいました。つまり尊王意識は旧幕府側の方が尊王を掲げる薩摩軍よりはるかに高かったのです。

1868.1.27鳥羽伏見の戦いから戊辰ぼしん戦争が始まりました。幕府側兵力15,000人、薩長側5,000人、幕府側圧倒優位でしたので、この戦争は薩長側の大博打でした。しかし結果は戦闘準備が万端だった薩長側が初戦を勝利したのでした。

決定的だったのは翌日、薩長土側が錦旗きんきを掲げて進軍したことです。錦旗を掲げられたことで幕府軍は朝敵となり、一気に士気が衰えました。それでも反撃の可能性は十分あったのですが、徳川慶喜が開陽丸に乗船し江戸に逃げ帰ってしまったことで、政府軍は完敗してしまいました。

この錦旗は岩倉、大久保らが京の薩摩藩邸で急遽偽造したものです。当時の日本人の感覚からすれば、錦旗を偽造するなどという発想は全く出てこない想像を絶する悪行です。それで旧幕府側は錦旗を本物と認識してしまいました。つまり尊王意識は旧幕府側の方が尊王を掲げる薩摩軍よりはるかに高かったのです。

無血開城

無血開城

クーデターの成功

徳川慶喜は主戦論を主張した勘定奉行並の小栗上野介を罷免し、1868年1月17 日、今まで遠ざけて来た勝海舟を海軍奉行並に取り立てて、新政府軍に従う方向へ舵を切りました。

1月23日、勝は「海軍力を使って官軍を分断すれば戦いに勝つことが出来るが戦乱は外国を巻き込んで果てしないものになるだろう」という和戦両様の上申書を提出しました。慶喜は勝に交渉を任せ、2月12日、わずかな共を連れて上野の寛永寺に入ってしまいました。

2月25日、官軍の5万の兵が錦旗を掲げて江戸へ向かって進軍しました。西郷隆盛や岩倉具視のクーデターが成功し、倒幕が実現した瞬間でした。

3月13~14日、勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城は無血開城されました。

徳川慶喜は主戦論を主張した勘定奉行並の小栗上野介を罷免し、1868年1月17 日、今まで遠ざけて来た勝海舟を海軍奉行並に取り立てて、新政府軍に従う方向へ舵を切りました。

1月23日、勝は「海軍力を使って官軍を分断すれば戦いに勝つことが出来るが戦乱は外国を巻き込んで果てしないものになるだろう」という和戦両様の上申書を提出しました。慶喜は勝に交渉を任せ、2月12日、わずかな共を連れて上野の寛永寺に入ってしまいました。

2月25日、官軍の5万の兵が錦旗を掲げて江戸へ向かって進軍しました。西郷隆盛や岩倉具視のクーデターが成功し、倒幕が実現した瞬間でした。

3月13~14日、勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城は無血開城されました。

ウソ22:西南戦争とは西郷隆盛が特権を奪われ不満を持っていた士族達に押されて起こした戦い

ウソ22:西南戦争とは西郷隆盛が特権を奪われ不満を持っていた士族達に押されて起こした戦い

真実:西南戦争のキッカケは西郷隆盛の私学校生徒のため

また戦争の裏には長州の西郷隆盛排除の意図もあった

西南戦争は長州が明治政府から薩摩を排除する狙いもあった

新政府は急激な近代化・中央集権化を推し進める中、それまでの支配階層だった武士の特権を奪って行きました。これが各地で武士の反乱を招くことになります。

一方、新政府設立の立役者の1人だった西郷隆盛は朝鮮派遣の扱いに不満を抱き、政府要職を辞職して鹿児島で私学校を開いていました。そんな西郷は、岩倉や長州派にとって必要ないどころか邪魔になっていました。

武士の反乱が頻発する中で、政府は大きな武力となり得る私学校生徒と強いカリスマ性のある西郷に対して警戒を強め、刺激するような行動を繰り返しました。それに不満と怒りを募らせる私学校生徒達は事件を起こし、また「政府による西郷暗殺」の噂も流れたことで、ついに西郷は土族達と共に明治政府に反旗をひるがえしたのでした。

薩摩の大久保利通は新政府側で西郷と戦うことになりましたが、その大久保も一年後に暗殺されてしまいます。長州はこれで明治政府から目障りな薩摩の大物を排除することに成功しました。

新政府は急激な近代化・中央集権化を推し進める中、それまでの支配階層だった武士の特権を奪って行きました。これが各地で武士の反乱を招くことになります。

一方、新政府設立の立役者の1人だった西郷隆盛は朝鮮派遣の扱いに不満を抱き、政府要職を辞職して鹿児島で私学校を開いていました。そんな西郷は、岩倉や長州派にとって必要ないどころか邪魔になっていました。

武士の反乱が頻発する中で、政府は大きな武力となり得る私学校生徒と強いカリスマ性のある西郷に対して警戒を強め、刺激するような行動を繰り返しました。それに不満と怒りを募らせる私学校生徒達は事件を起こし、また「政府による西郷暗殺」の噂も流れたことで、ついに西郷は土族達と共に明治政府に反旗をひるがえしたのでした。

薩摩の大久保利通は新政府側で西郷と戦うことになりましたが、その大久保も一年後に暗殺されてしまいます。長州はこれで明治政府から目障りな薩摩の大物を排除することに成功しました。

ウソ23:維新によって日本は近代化への道を進んだ

ウソ23:維新によって日本は近代化への道を進んだ

真実:維新によって日本はカバール支配に組み込まれた

維新によって、日本はカバール支配に組み込まれた

新政府はほぼ長州派だけで権力を握りました。しかし政府を動かすノウハウは無いので、カバールの力を借りるしかありませんでした。

長州ファイブは英に行ってカバールの文化や技術を学びました。それらがあらゆる制度に適用され、学問、医学にも浸透して行きました。

長州派は、自分の立場、権力を守るためにカバールの言うことを聞いて来ました。日本を表向きは独立国にしているので、カバールは長きにわたって裏から指示を与えて来ました。日本を支配し易いように天皇を中心に据えさせ、富国強兵政策を取らせて、彼らが儲かる戦争を起こしていったのです。

新政府はほぼ長州派だけで権力を握りました。しかし政府を動かすノウハウは無いので、カバールの力を借りるしかありませんでした。

長州ファイブは英に行ってカバールの文化や技術を学びました。それらがあらゆる制度に適用され、学問、医学にも浸透して行きました。

長州派は、自分の立場、権力を守るためにカバールの言うことを聞いて来ました。日本を表向きは独立国にしているので、カバールは長きにわたって裏から指示を与えて来ました。日本を支配し易いように天皇を中心に据えさせ、富国強兵政策を取らせて、彼らが儲かる戦争を起こしていったのです。

ウソ24:維新によって日本は植民地にならないで済んだ

ウソ24:維新によって日本は植民地にならないで済んだ

真実:維新によって日本は米カバールの「独立国に見せかけた植民地」になった

(予備情報)日本が戦前のアジア諸国のような植民地になっていない理由

カバールは、日本を戦前のアジア諸国のような明確な植民地にはしていません。 その理由は、日本人はワンネス思考が強く一人一人がオンリーワンという考えの、レムリアと縄文の波動を強く受け継ぐ特別な人種故に

①力で押さえつけても奴隷的感覚でひれ伏すことを自分に許さない 

②人としての誇りを失うくらいなら、最後の一人になるまでとことん闘う 

③捕虜になるくらいなら死を選ぶ

という特異な性質を有しています。それは宣教師からの情報や薩英戦争や長州と四国連合艦隊との戦争でカバールに知られる所となり、彼らに情報共有されました。

もしその日本人を力で押さえつけようとすれば、自分達にも相当な損害を及ぼす危険があり、かつ勝利したところで日本人に死を選ばれたら、優秀な日本人を奴隷として使うことが出来ない。

そこで彼らは植民地としての直接支配は適切ではないと考え、一応独立国の形態をとらせながら、裏から支配する方法を選択することにしたのです。

カバールは、日本を戦前のアジア諸国のような明確な植民地にはしていません。 その理由は、日本人はワンネス思考が強く一人一人がオンリーワンという考えの、レムリアと縄文の波動を強く受け継ぐ特別な人種故に

①力で押さえつけても奴隷的感覚でひれ伏すことを自分に許さない

②人としての誇りを失うくらいなら、最後の一人になるまでとことん闘う

③捕虜になるくらいなら死を選ぶ

という特異な性質を有しています。それは宣教師からの情報や薩英戦争や長州と四国連合艦隊との戦争でカバールに知られる所となり、彼らに情報共有されました。

もしその日本人を力で押さえつけようとすれば、自分達にも相当な損害を及ぼす危険があり、かつ勝利したところで日本人に死を選ばれたら、優秀な日本人を奴隷として使うことが出来ない。

そこで彼らは植民地としての直接支配は適切ではないと考え、一応独立国の形態をとらせながら、裏から支配する方法を選択することにしたのです。

日本は実質的に米カバールの完全なる植民地である

①日本の首相も含め、ほとんどの政治家はカバールの手下です

②日本の政治家に決定権はありません
カバールの意を日本に実行させる「三極委員会」ですべてが決められています

③日本の官僚・メディア・金融・大企業・警察・裁判所にいたるまで、 カバールの人材が入っています

④日本に制空権はありません。それは米軍が持っています制空権の無い独立国家などこの世に日本以外存在しません

⑤日本人が稼いだお金は、主に米国債としてアメリカカバールに、 他には税金投入先カバール企業・外資株・為替・国際援助・などの方法によって欧米カバールに吸い上げられています

⑥日本人が小学校から受ける教育は、アメリカ作成の「太平洋戦争史」に代表される米の日本占領戦略WGIPに基づいて今日に至るまで77年間も行われて来ています。そこではカバールの都合に合わせ、明治維新や大東亜戦争などの真実を歪曲させて教えて来ています。

●その他数え上げれば切りがないほどの方法で、日本はコントロールされています

①日本の首相も含め、ほとんどの政治家はカバールの手下です

②日本の政治家に決定権はありません
カバールの意を日本に実行させる「三極委員会」ですべてが決められています

③日本の官僚・メディア・金融・大企業・警察・裁判所にいたるまで、 カバールの人材が入っています

④日本に制空権はありません。それは米軍が持っています制空権の無い独立国家などこの世に日本以外存在しません

⑤日本人が稼いだお金は、主に米国債としてアメリカカバールに、 他には税金投入先カバール企業・外資株・為替・国際援助・などの方法によって欧米カバールに吸い上げられています

⑥日本人が小学校から受ける教育は、アメリカ作成の「太平洋戦争史」に代表される米の日本占領戦略WGIPに基づいて今日に至るまで77年間も行われて来ています。そこではカバールの都合に合わせ、明治維新や大東亜戦争などの真実を歪曲させて教えて来ています。

●その他数え上げれば切りがないほどの方法で、日本はコントロールされています

カバールの影

カバールの影

明治維新の背後にカバールの影

明治維新の背後にカバールの影

明治政府閣僚の出身地(出身藩)

明治政府閣僚の出身地(出身藩)

近代的内閣制度創設時(明治18年:1885年)の第1代伊藤内閣閣僚

ほとんどが薩長で占められています。これは明治維新が薩長のクーデターであったことを、如実に示しています。

薩長は4人ずつで、形上はバランスを取っているように見えますが、 維新に貢献して一番大きな影響力を持っていた西郷隆盛と大久保利通を消し去った上での組閣なので、長州の影響力の方がはるかに勝っている内閣と言えます。

ほとんどが薩長で占められています。これは明治維新が薩長のクーデターであったことを、如実に示しています。

薩長は4人ずつで、形上はバランスを取っているように見えますが、 維新に貢献して一番大きな影響力を持っていた西郷隆盛と大久保利通を消し去った上での組閣なので、長州の影響力の方がはるかに勝っている内閣と言えます。

第2~3代内閣の閣僚

第2~3代内閣も見てみれば、ほとんど薩長です。総理大臣は薩長で交代しています。これは政治の私物化であり、明治期において今後も続くことになります。

第2~3代内閣も見てみれば、ほとんど薩長です。総理大臣は薩長で交代しています。これは政治の私物化であり、明治期において今後も続くことになります。

歴代総理大臣の出身地

歴代総理大臣の出身地

第1~14代総理大臣の出身

第1~14代総理大臣の出身

歴代総理大臣の出身県

戦前から戦後の今に至るまで、長州支配が続いている

江戸クーデター者達の多くが写った集合写真

江戸クーデター者達の多くが写った集合写真

岩倉兄弟が佐賀藩校「致遠館」に入学時、彼らを迎えた教師と生徒による集合写真

勝 海舟、中野建明、中島信行、後藤象二郎、江藤新平、大木喬仁、井上 馨、品川弥二郎、伊藤博文、村田新八、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、別府晋介、中村宗見、川路利良、黒田清隆、鮫島誠蔵、五代友厚、寺島宗則、吉井友実、森 有禮、正岡隼人、陸奥宗光

中岡慎太郎、大隈重信、岩倉具綱、ウイリアム、フルベッキ、岩倉具定、高杉晋作、横井小楠

大村益次郎、桂小五郎、江副廉蔵、岩倉具経、広沢真臣、睦仁親王、岡本健三郎、副島種臣、坂本龍馬、日下部太郎、横井左太平、横井太平

勝 海舟、中野建明、中島信行、後藤象二郎、江藤新平、大木喬仁、井上 馨、品川弥二郎、伊藤博文、村田新八、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、別府晋介、中村宗見、川路利良、黒田清隆、鮫島誠蔵、五代友厚、寺島宗則、吉井友実、森 有禮、正岡隼人、陸奥宗光

中岡慎太郎、大隈重信、岩倉具綱、ウイリアム、フルベッキ、岩倉具定、高杉晋作、横井小楠

大村益次郎、桂小五郎、江副廉蔵、岩倉具経、広沢真臣、睦仁親王、岡本健三郎、副島種臣、坂本龍馬、日下部太郎、横井左太平、横井太平

カバールが行う契約に関して

カバールが行う契約に関して

相手に要らぬ意識を向けない

カバールのトップは爬虫類系ET故に、人間には到底考えられないような極悪非道なる行動を何の躊躇も無く行うように見えますが、この明治維新の時のように、その彼らが条約を締結してから日本で支配活動をしていることや、金で縛る目的で戦費を貸しつける時でも借用証を交わしているのは、一体何を意味するのでしょうか。もし彼らがただただ人でなしの無頼の徒であると言うのであれば、カづくで日本を蹂躙すれば済むことです。しかしそうはしていません。

実は彼らは「魂の自由を奪うことは許されない」という宇宙の絶対法則を知っているのです。従って、彼らは不正なやり方であっても必ず相手と契約を交わした上で傍若無人な行動を取っています。 彼らとて宇宙の法則には逆らえないのです。

そうであれば、私達は彼らと契約を交わさなければ良いのです。契約とは、双方の意志でエネルギ一的結びつきを持つことです。だから「意識を向ける」というエネルギーの結びつきでも同じことになります。カバールのやることに対して長期に怒りを向けることがそうです。それは結びつきを作るだけでなく、ネガエネルギーが大好きな相手に餌を提供することにもなるのです。更には、カバールに愛と祝福を送ることも止めて下さい。それは相手を怒らせると同時にこちらの場所を知らせることになるので、大変危険です。

私達が彼らから被害を被らないようにするには、彼らに意識を向け続けなければ良いのです。

こちらが意識を向けない限り、彼らは私達に何も出来ない。この事実を知れば、彼らを怖がる必要は全くありません。 「相手に要らぬ意識を向けない」 これが支配からの脱出のキーワードです。

カバールのトップは爬虫類系ET故に、人間には到底考えられないような極悪非道なる行動を何の躊躇も無く行うように見えますが、この明治維新の時のように、その彼らが条約を締結してから日本で支配活動をしていることや、金で縛る目的で戦費を貸しつける時でも借用証を交わしているのは、一体何を意味するのでしょうか。もし彼らがただただ人でなしの無頼の徒であると言うのであれば、カづくで日本を蹂躙すれば済むことです。しかしそうはしていません。

実は彼らは「魂の自由を奪うことは許されない」という宇宙の絶対法則を知っているのです。従って、彼らは不正なやり方であっても必ず相手と契約を交わした上で傍若無人な行動を取っています。 彼らとて宇宙の法則には逆らえないのです。

そうであれば、私達は彼らと契約を交わさなければ良いのです。契約とは、双方の意志でエネルギ一的結びつきを持つことです。だから「意識を向ける」というエネルギーの結びつきでも同じことになります。カバールのやることに対して長期に怒りを向けることがそうです。それは結びつきを作るだけでなく、ネガエネルギーが大好きな相手に餌を提供することにもなるのです。更には、カバールに愛と祝福を送ることも止めて下さい。それは相手を怒らせると同時にこちらの場所を知らせることになるので、大変危険です。

私達が彼らから被害を被らないようにするには、彼らに意識を向け続けなければ良いのです。

こちらが意識を向けない限り、彼らは私達に何も出来ない。この事実を知れば、彼らを怖がる必要は全くありません。 「相手に要らぬ意識を向けない」 これが支配からの脱出のキーワードです。

明治政府が作った特権階級「華族」

明治政府が作った特権階級「華族」

お手盛りで華族になった方々

華族制度は明治2年(1869)から昭和22年(1947)に廃止されるまで78年間存続し、明治17年に華族令が制定されると、公・侯・伯・子・男の五爵位により序列化されました。

江戸時代の身分制度を崩壊させたと言われる彼らは、庶民の上に存在して支配すべく新しい身分制度「華族制度」を自分達で作り、そこに身を置いたのです。下級公家だった岩倉具視などは爵位の最上位の公爵に収まっています。何という愚劣さ・・。

華族制度は明治2年(1869)から昭和22年(1947)に廃止されるまで78年間存続し、明治17年に華族令が制定されると、公・侯・伯・子・男の五爵位により序列化されました。

江戸時代の身分制度を崩壊させたと言われる彼らは、庶民の上に存在して支配すべく新しい身分制度「華族制度」を自分達で作り、そこに身を置いたのです。下級公家だった岩倉具視などは爵位の最上位の公爵に収まっています。何という愚劣さ・・。

コメント

タイトルとURLをコピーしました