1941年12月7日の真珠湾攻撃の首謀者である山本五十六提督が書いた2通の手紙が、初めて公開されました。
海軍将校の子孫から寄贈された2通の手紙は、今年のVJデー(日本降伏記念日)の80周年を記念して、日本の福島博物館で展示されています。
かつては悪役として非難されていた山本ですが、戦後、彼に関する調査が進むにつれて、この日本海軍の提督に対する評価は大きく変化しました。
「それは日本の超国家主義的心理劇の特異な悲劇でした」と、太平洋戦争に関する三部作でイアン・トルは書いています。
「西欧と対峙する最も適した人材が権力の周辺に追いやられたのです」
戦時中、外務大臣の首席秘書官を務めた加瀬俊一は、より率直に次のように記しています。
「出来事は時にあなたを圧倒し、押し寄せ、流してしまいます。それを常に動かすことはできません。一人の意志では何もできません。戦争には独自の生命があります」

山本は、戦争の波に翻弄される将校たちの一人でした。権力の座から追放されたわけではありませんでしたが、愛国心と現実のギャップに葛藤していました。
1940年10月14日、山本は西園寺公望の秘書である原田熊雄に「米国と戦うことは、全世界と戦うようなものです。しかし、決定は下りました。私は全力を尽くして戦います。間違いなく、私は長門で死ぬでしょう。その間、東京は3回も焼失するでしょう」と手紙を書きました。
NHKワールド・ジャパンによると、展示されている手紙は、海軍将校の妻の両親宛てに福島県会津若松市宛てに送られたものです。
博物館関係者は、手紙の内容から、山本は戦争の初期段階を冷静に判断していたことが伺えるとしています。
そのうちの1通は1942年1月13日付けで、彼の旗艦「長門」から書かれたものでした(1 か月後、「大和」は提督の旗艦となりました)。彼は、重大な任務に従事し、小さな勝利を収めることはできたが、それは米国の不注意と怠慢によるものだと書いています。そして、本格的な戦闘はこれからだと続けています。
もう1通の展示されている手紙は、1942年4月付けで、彼が「大和」に乗船中に、戦後、先祖の墓を訪れたいという願いを綴ったものです。

山本は1年後の1943年4月19日、ソロモン諸島のブーゲンビル上空で撃墜されました。アメリカ人たちは、真珠湾攻撃の首謀者に対する憎しみを露わにしていました。
アメリカ空軍兵の一人、米陸軍航空軍第339戦闘飛行隊の司令官、ジョン・ウィリアム・ミッチェル少佐は、「山本を殺せ」という任務を受けた際、「山本とは誰だ?」と尋ねたと言われています。
トーマス・ジョージ・ランフィア・ジュニア大尉は、ただ「真珠湾」とだけ答えました。
「この機を撃墜します」と海軍計画担当者はマーク・ミッチャー少将とランフィアに語りました。
「必要なら、空中で体当たりしてでも撃墜してください」



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