文明発生の時空間法則
これから始まる黄金文明の中心は、東経135度に位置する「ニッポン」

引用資料
この資料の特に前半部分の骨子は、下記の本から引用させていただいております。
是非お読みください。
「ガイアの法則Ⅰ・Ⅱ」 著者:千賀一生、出版社:ヒカルランド
なお、同様に「文明法則史」という素晴らしい理論があることを紹介しておきます。
日本の文明研究科 村山 節(むらやま・みさお; 1911年~2002年)

はじめに
これから、日本人が世界に対して重要な役割を担う時代がやってきます。
その役割を、日本人がシッカリ果たすためには、下記の2つのことを、全員が知る必要があります。
その2つとは
- これから日本が中心となって、世界を導いていく時代がやってくる
- 世界を導いていける、日本人としての自信と自覚を持つ
です。
そのため、この資料では
- 日本中心の時代到来が事実であることを「理論的」に説明することで、誰でも疑いを抱く事なく、自覚と覚悟を持つことができる
- 日本という国/日本人という民族の素晴らしさ、いま世界中が日本を好ましい国だと思っている/日本という国を注目している、その事実を明確に伝えることで、リーダーとしての自信を持っていただく
ということをやっています。
この資料は、日本人の自己満足を煽るために創ったものでは、決してありません。
これを理解して、日本人にシッカリと自覚を持っていただくことが、これからの黄金時代を素晴らしいものにする礎になることを確信しております。

第1部 確信 これからは日本が世界の中心の時代

文明は規則正しく発生/移動する

文明の焦点移動の法則
驚くべきことですが、この地球上で発生する最も進んだ文明は、寸分の狂いもなく、下記の規則の基に発生しています。
その規則とは
- 1611年ごとに発生
- 経緯(縦線)で、22.5度ずつ移動しながら発生
- この移動の流れは、東回りと西回りの2つがあり、発生時期が半周期つまり「1611 / 2」年ずつずれながらいつも同時に流れている
- 文明は前半の「1611 / 2」年が繁栄期、後半が衰退期となる
- その結果、東回りと西回りは繁栄と衰退が「1611 / 2」年ごとに入れ替わる。つまり
- 東の流れが前記で繁栄している時には、西は後期で衰退しており
- 東の流れが後期で衰退している時には、西は前記で繁栄している
という具合に。

文明発生の事実を見る
文明の焦点は規則正しく移動していきますが、その移動の流れとして、東回りと西回りの2つがあり、それらが同時進行します。

東回りの流れ
東回りのスタートは、東経45.0度のシュメール文明です。
次の文明は、そこから東の東経67.5度に位置するインダス文明です。
次は、そこから東の東経90.0度に位置するガンジス文明です。
次は、そこから東の東経112.5度に位置する黄河文明です。
全て、1611年ごとに東へ22.5度文明が移動し発生しています。

文明焦点移動の「東回り」の流れ
各文明が、800年間栄え文明の焦点が
- 1611年毎に
- 経度で22.5度
東へ移動しながら発生している

西回りの流れ
西回りのスタートは、東経67.5度に位置する前インダス文明です。
次の文明は、そこから西の東経45.0度に位置する、メソポタミア文明です。
次の文明は、そこから西の東経22.5度に位置する、ギリシャ文明です。
次は、そこから西の東経0度に位置するイギリスを中心とする、アングロサクソン文明です。
これも全て、1611年ごとに西へ22.5度文明が移動し、発生しています。

文明焦点移動の「西回り」の流れ
文明の焦点が、1611年毎に経度で22.5度、西へ移動しながら発生している

1つの文明は前半の806年が繁栄期 後半の806年が衰退期となる
注)今後の資料では
- 806年を省略して800年
- 1611年を省略して1600年
と表記します。

文明の繁栄期と衰退期

西回りの流れのサブ的流れ
この西回りに関しては、焦点で文明が起こった後、年代が進むと繁栄地が22.5度の半分、11.25度西へと進むことがあります。
例えば、メソポタミア繁栄の後、繁栄の焦点が12.36度(11.25度から少しズレ有り)西のエジプトに移り、またギリシャ繁栄の後、繁栄の中心が11.25度西のローマに移り、またイギリス繁栄の後、繁栄の中心がアメリカに移るという具合です。
イギリスとアメリカは、だいぶ離れているではないかと思われるでしょうが、元々ユーラシア大陸とアメリカ大陸は引っ付いており、それらがプレートの動きで離れて行った経緯があります。
その引っ付いていた時のロンドンの位置から、11.25度西へ移動した所が、現在のアメリカの首都ワシントンの位置になります。

西回りの文明に見られる、繁栄期の移動

西回りの繁栄の焦点の移動事例「エジプト文明」
メソポタミア文明においては、ディグリス・ユーフラテス両河流域で、複数の文明が400年間栄えた後、繁栄の焦点がエジプトに移っている。
移る状態は、周期も地点も、全て半分になっている。
つまり、本来メソポタミアは、800年の繁栄期を有するところを、半分の400年で衰退し、22.5°の半分の11.25°西の位置にある、エジプト(複数の王朝あり)に繁栄の焦点が移動している。
要するに、半分のリズムで焦点が移動している。

西回りの繁栄の焦点の移動事例「ギリシャ文明」
ギリシャ文明においては、ギリシャが400年間栄えた後、繁栄の焦点が、イタリアのローマに移っている。
移る状態は、周期も地点も、全て半分になっている。
つまり、本来ギリシャは、800年の繁栄期を有するところを、半分の400年で衰退し、22.5°の半分の11.25°西の位置にある、ローマに繁栄の焦点が移動している。
要するに、半分のリズムで焦点が移動している。

西回りの繁栄の焦点の移動事例「アングロサクソン文明」
アングロサクソン文明においては、イギリスが680年間栄えた後、繁栄の焦点がアメリカに移っている。
移る状態は、周期は短く、地点は半分になっている。
つまり、イギリス(ロンドン)は、800年の繁栄期を有するところを、680年で衰退し、22.5°の半分の11.25°西の位置にあるアメリカ(ワシントン)に繁栄の焦点が移動している。

実は東回りのスタートは日本の縄文文明なのです
ここで、少し寄り道をします。
実は東回りのスタートは、日本の縄文文明なのです

東回り文明移動のスタートは日本の縄文から
太平洋には、かつてレムリア大陸が存在した。
日本は、レムリアの文明圏に在り、高度な縄文文化を花開かせていた。
レムリアが、法則に従って崩壊時期に入った時、聖なるリズムの知識を有する一団が移動先に選んだ1つが、日本列島である。
この文明移動法則は、シュメール以前にも当てはまる。
シュメール文明の基をたどれば、定かではないものの、さらに6400年前に日本で花開いていた縄文文化であると推定される。
そして、後で記すように、平和なワンネスの文化を、長期に渡って構築していた。

16,500年以前 青森に巨大海洋都市文化(縄文文化)が栄えていた
神代文字を使用
現在の135.0度に位置していない青森で、なぜ巨大な文明が興きていたのか、その理由はよく解りません。
今とは経度が違っていたのか(少なくとも次元は違っていました)、龍族が選んだ都市が、たまたま青森であって、当時、青森以上に大きな縄文都市が西日本に有ったのか、明確には解っていません。

16,500年以前に青森に都市があり、優秀な民族が暮らしていた
日本の青森には、16,500年以前に、当時としては最大2000人規模の海洋都市が存在し、世界中に航海していた(当時の日本人の総人口は15万人であって、200~300人程度の村落しかなかった時代)。
住んでいたのは、現在のアイヌ・沖縄の先祖たちであり、神代文字を使用し、世界中に縄文土器やあやとりなどの青森文化を伝えていた。

青森:大平山元(おおだいやまもと)遺跡
大平山元遺跡は、旧石器時代の石器が出土する遺跡として知られていたが、1975、76年に青森県立郷土館の行った発掘調査によって、32点の文様の描かれていない無文土器を発掘、その年代は炭素年代測定法によって「16,000年前を越える」可能性が示唆された。
これは、これまで知られていた最古の土器の年代を大幅に上回る古さであり、土器起源の定説に大きな波紋を広げることになった。
他地域の最古の土器を見ると、南アジア西アジア、アフリカが「約9000年前」、ヨーロッパが「約8500年前」、学校で習ったいわゆる「四大文明」と較べても、日本は飛び抜けて古い。
それは、土器の起源が日本にあることを示唆している。
海洋民族として世界へ船出
| 約6千~7千年前、北欧のバルチック海沿岸に「リトリナ海文化」という狩漁採集文化が発生した。この遺跡から発掘された土器が日本の初期縄文土器に酷似 |
| インカの土器:典型的なのが「アリパラス」と呼ばれる壺で底は円錐形。ロクロ不使用で縄文土器を感じさせる。 |
| 人類学者西村真次はカムチャツカ半島、セント・ローレンス島やアメリカン・インディアンの土器が縄文土器に似ていると指摘 |
| 南米エクアドルのバルディビアの先史集落遺跡で多数の縄文土器に酷似した土器が1956年に発掘された。最下層の土器はC14による年代測定結果は6000年前 |
| 1960年中頃に、フランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士がバヌアツ共和国/ニューヘブリデス諸島の畑の地表から約40点の古い土器を採取。その写真を見た篠道喜彦博士が縄文土器との類似を指摘。土器の成分分析の結果は青森県出土土器と同じとされ、約5000年前と判定された。 |

あやとりの文化
古代から続く文化である「あやとり」は、19世紀末から文化人類学者の研究対象とされ、現在までに東アジア、オーストラリア、太平洋諸島、南北アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、西インド諸島、極北圏等の、全世界からあやとりの形が収集記録されている。
現在、その起源は単一ではないとされているが…

神代文字
ここ30年間、世界各地の大学やユネスコなどの研究機関によって、世界的に広く同じようなペトログラフが分布していることが判ってきた。
日本列島にも、同じ様なシュメール文字と見られる、ペトログラフの刻まれている岩や石が多数見付かった。
日本では「中国から感じが伝わる5~6世紀頃までは文字がなかった」とされていたが、上記のことを総合し、最近では、日本でも漢字渡来以前に、既に文字が存在していたのではないか、と考えられ始めている。

多様な神代文字 <全部 ”あいうえお” の読み方>

(補足)入れ墨で神代文字を伝搬
青森人は「入れ墨文化」を持っており、彼らが使用していた神代文字(ペトログラフ)をデザイン化し、身体に入れ墨して海洋に出ていった。
それが世界に広まっていった。
この入れ墨の1つとして、六芒星も刻まれた。

縄文文化は豊かな文化
「縄文時代は今よりはるかに遅れた文化であり、竪穴住居に住み狩猟で生活していた」などと考えているあなたの頭は余りにも古すぎます!
縄文文化は、精神的にも物質的にも豊かな文化
縄文時代は、通して見れば「18,000年くらいの長い期間」です
- 縄文時代草創期:今から20,000年~9,000年 以前
- 縄文時代早期:今から9,000年~6,000年 以前
- 縄文前期から晩期:今から6,000年~2,000年 以前

長期に渡って争いの全く無いワンネス意識世界を営んでいた
縄文遺跡数千か所からは、対人用の武器が1つも出土されていません。
植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものがありません。
もちろん、刀剣や槍の類もないのです。
その証拠に、縄文時代の人骨に残されている傷は、殺傷を目的とした行為による傷ではなく、狩猟の際の誤射や流れ矢など、事故による傷と解釈されるものです。
頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、助骨に槍の穂先が狭まっているような遺体は、未だに発見されていません。
日本では、そういう愛和な時代が、2万年近くも続いたのです。

縄文家屋の柱
石川県の真脇遺跡やチカモリ遺跡で見付かった縄文家屋の柱の太さは1mもあり、それより千年以上あとにつくられた、奈良県東大寺の大黒柱よりはるかに大きい。

縄文時代の食べ物
1. 食用植物
食料の残滓としての植物遺体は、約200遺跡からの約40種類である。

2. 魚
東北地方の三陸海岸など、外洋と呼ばれる地域では、マグロ、カツオ、マダイなどを、釣りやモリで突いて採っていました。
東京湾などの内海では、クロダイやスズキが主な獲物となり、縄文時代の後半は網による漁が行われていました。
海のない内陸部では、フナ、コイ、ニオイ、ギバチなどの淡水魚をとっていました。
特に東日本では、春に川を遡るマス、秋のサケが重要な食料となっていたと考えられます。
70種類以上の魚類が食べられていたと思われます。
フグも食べられており、すでにフグの毒の抜き方を知っていたようです。
また貝類も盛んにとっており、各地に貝塚が形成されます。
350種類以上の貝が食べられていました。

漆の栽培
縄文では古くから漆を栽培し、土器や櫛などに塗装していた
福井の鳥浜貝塚で、世界最古1万2600年前のウルシの枝が出土。
漆の木というのは、木を植えただけでは育ってくれず、下草を刈って毎年手入れをしながら樹液の採取ができるようになるまで、10年近くもかかるものであり、民家、村落から漆の木を、目的をもって栽培していたということの証拠。
また、9000年前の漆塗りの製品として、北海道函館市の土器が発見されている。

縄文時代の日用品
3. 今と変わらぬ「急須」
茨城県の椎塚貝塚出土(縄文後期)
東京都青梅市の寺改戸遺跡から出土(縄文後期)

4. 現代の名工によって作られたとしか思えない容器
福井県・鳥浜貝塚出土(縄文前期)
京都府・北白川遺跡出土(縄文前期)
千葉県・飯山満東遺跡出土(縄文前期)

5. 現代の名工をしのぐ「壺」
大壺(縄文晩期):青森県三戸町松原遺跡
後の時代の銅鐸を思わせるような沈線紋が刻まれています

現代の名工をもしのぐ、複雑大胆なデザイン「土器」
新潟県 十日町市 篠山遺跡出土:火炎土器(縄文中期)
群馬県 渋川市 道訓前遺跡出土:深鉢(縄文中期)
長野県 曽利遺跡出土:深鉢(縄文中期)
富山県 朝日貝塚出土:深鉢(縄文中期)

6. 縄文の「デフォルメ」土器
北海道 千歳市 美々4遺跡:海獣型土製品(縄文晩期)
山形県 西の前遺跡:立像土偶(縄文中期)
山形県 西の前遺跡:土偶(縄文後期)

現代の技術では制作不可能な「遮光器土偶」
宮城県 恵比寿田遺跡:遮光器土偶(縄文晩期)
これはデフォルメではなく、宇宙服姿の宇宙人を詳細に表している。
この複雑文様の土偶は、土の厚みが3mmで出来ており、現代の技術では再現不可能。

① 縄文人が海外に渡った痕跡
縄文人が、海外に渡っていたことを知っている人は、まだ少ないように思います。
その背景には、縄文人は原始的な生活をしていたという、理屈のない先入観があります。
これから、青森縄文人が遠く海外にまで遠征していた事実を見ていただきます。
これを見て、不要な先入観を払拭してください。

3万年前 地球に龍族が飛来
話の時代が少し戻ります
3万年前 地球に龍族(ドラコニアン)が飛来

龍族(ドラコニアン)の地球来訪
3万年前、龍座系龍星から金星経由でYAP遺伝子を保有する龍族が金発掘を目的に地球を来訪。
UFOのエネルギー補給を、ボルネオのキナバル山から得ていたが、自然の山から得られるエネルギーは弱く、地球で本格的に活動するためには、人工的なエネルギー補給基地を建設する必要に迫られた。
基地建設と金発掘のために、地球人の協力が必要であり、その人を担える多量の人材を造るべく、ボルネオのドゥスン族とのハイブリッド造りを、数千年に渡って試みたが、DNA資質の不適合で失敗した。

16,000年前 龍族と青森人とが交配、青森文明勃興、YAP日本人の誕生
16,000年前 龍族(ドラコニアン)と青森人とが交配、青森文明勃興(現地球文明の発端)、YAP日本人の誕生
したがって日本人というのは「縄文人 + ムー + 龍族」であり、その血を濃く維持しているのがアイヌ・沖縄人

16,000年前に、青森に龍族(ドラコニアン)が訪れた
龍族は、地球各地でハイブリッド造りに最適な人類を探索しており、日本近海にも、青森海岸沖・出雲海岸沖・和歌山海岸沖に拠点を造っていた。
そして、青森都市住人の精神性の高さ、争わない性質、美・芸術に優れ、高度な船舶技術、文字使用、国際性、勇気・強い意志を有し、尊厳がある、そして何よりも、自分たちと姿が似ている、などから適切と判断し、自分たちとのハイブリッド造りを行って、それに成功し、16,000年前に「青森文明」を興した。
地球では、最初の南極文明に始まる、過去6回の文明興亡が有ったが、この青森文明が、7度目である現文明の発端となった。
ここで、YAP遺伝子を持つ、日本人が生まれたのである。

(補足)YAP遺伝子
YAP遺伝子とは、Y染色体のDNAのある特定の場所に挿入された、およそ300の塩基からなる特定遺伝子を指す。
YAP遺伝子は、アイヌ人・沖縄人で頻度が高く、アイヌ民族88%、沖縄人56%、本土日本42%~56%である。
それは、朝鮮や中国を含むユーラシアでもほとんど見付からず、日本以外で見付かるのは、チベット・中近東などであるという。
Y染色体を形成するDNAは、父から息子へと遺伝していく。
YAPと呼ばれている特定の塩基配列はY染色体にあるので、父系遺伝でしか存在しない。
皇室が、父系遺伝を尊重してきたのは、このYAPにあるのではないか?
YAP遺伝子は、自分を捨てて他人に尽くす親切遺伝子とも言われ、日本人特有の親切さや勤勉さなども、この遺伝子の影響が多大にあると思われる。

龍族と青森住人との出会いが「浦島太郎」伝説となる
おとぎばなし「浦島太郎」は、室町時代に出来た話ですが、その種本が西暦700年代に書かれた「丹後風土記」です。
しかし、実際には、そのルーツは遥か昔の龍族と青森住民との出会いにあるのです。

龍族(ドラコニアン)と日本人が、先ず青森近傍で活動
北海道:三角山、青森:もも山、青森:も山、秋田:黒又山、秋田:神宮司岳、岩手:自鏡山、山形:富神山、山形:堂満山、福島:千貫森
青森近傍に、多くのピラミッドを建設。
ピラミッドという語源は、神代文字「日来神宮(ヒラミット)」が語源である。

青森都市水没により、拠点を飛騨高山に移動・ピラミッド建設
その2千年後の14,000年前に、氷河期の終わりによって海面が上昇(ノアの箱舟も含めて世界中に洪水伝説有り)し、青森文明は海に没した。
そこで、内陸の飛騨高山に移動し、エネルギー補給装置であるピラミッドを、位山・皆神山・尖山・笠置山に建設。
それ以降、龍族とのハイブリッド青森人は、日本列島各地に拡がり、YAP遺伝子の日本人の基を成した。

最近になって、階段ピラミッドとして明確に
奈良県明日香村「戸塚古墳」
石を階段状に積み上げた、ピラミッドのような、極めて珍しい形をしていた可能性が高いことが、2014年8月13日の、地元の教育委員会などの発掘調査で分かった。
秋田県:黒又山(クロマンタ)
平成3年、環太平洋学会の調査で、階段状のピラミッドと断定された。

② 日本のピラミッド
国内を旅行すると、色々な所にきれいな三角形の山があることに気付きます。
その中には、龍族と古代日本人が造り上げた、ピラミッドも多くあるのではないでしょうか。
日本のピラミッドを調べ上げた、酒井勝軍という先駆者がいますので、その活動を見ていただきます。

〔4〕11,000年前 龍族と日本人が協働で世界文明勃興を開始
11,000年前 龍族(ドラコニアン)と日本人が、協働で世界文明勃興を開始
(日本から世界文明が始まった)

龍族と日本人は地球開拓記念碑「スフィンクス」をエジプトの地に造った
その後、水位が下がり、龍族とそのハイブリッド日本人たちは、これから世界進出するに当たって地球開拓記念碑「スフィンクス」をエジプトの地に造った。
顔は龍族の王(モンゴロイドに酷似)を模した。
そして、龍族が地球に最初に降り立った記念の地:「ポルネオ・キナバル山」に謝意を表し、その視線をキナバル山に向けて造られた。
後世のエジプト人は、なぜ顔がモンゴロイドであるのか理解できず、顔を直そうとした。
スフィンクスの下には、彼らの業績や研究成果を記したメモリアルブレッドが埋めてある。
スフィンクスの顔は龍族の王であり、右の写真を見れば解る通り、明らかにモンゴロイドである。
エジプト人は、自分たちが持っているイメージに作り替えようとして、目を削ってパッチリとさせ、反っ歯も削り、鼻も高く修正しようとしたが上手くいかず、削ったままになっている。

エジプトピラミッドの建設
最大の「クフ王の大ピラミッド」は、底辺の長さ230m、高さ147mもあり、石は230万個使用されている。
それは、毎日20万人が動員されて、約20年もの歳月をかけて建造されたとされている。
ところが、この方法では、20年間休まずに毎日15時間作業しても、3分に1個の割合で積み上げなければならない量になる。
現在では、クレーンを使って作業できる可能性があるが、2.5トンの石を3分で吊り上げて据え付けるのはとても無理である。
ましてや、人力しかない当時に3分に1個の巨石を据えていくことは、絶対に不可能であろう。
(コメント)もっとあり得ない話
当時のエジプト人口は10万人、そのうち労働可能な人口は6万人であり、20万人動員というのはあり得ない数値である。
実際には人力を使わず、龍族宇宙船の重力制御装置を使って全ての石を積み上げた。

YAP遺伝子の分布
ボルネオ・ブータン・チベット・モンゴル・キルギス・ロシア・中東・アラスカ原住民・南米・東南アジア
YAP遺伝子保有者の特質
- 助け合い・和を貴ぶ
- 人が好い
- 他人の気持ちが解る
- 意思が強い
- 先進的な技術開発が得意
YAP遺伝子の純粋性について
Y染色体は、混ぜ合わされることなく、祖先のY染色体がそのまま、父親から男の子へ、世代から世代へと連綿と遺伝されるものであるが、龍族がハイブリッド造りに苦労したように、そこにはDNA資質の適合性の問題があり、どの民族でもYAPの特質がそのまま現出する訳では無さそうである。
日本人との交配が最も(現出)純度が高く、多民族との交配でそれは薄まっていく傾向にあるようである。

龍族(ドラコニアン)と日本人が協働でシュメール文明を興す
7,000年前、龍族は飛騨高山から、日本人16名を指導者として派遣し、シュメール文明を興す。
日本人は、原住民から天使として扱われた。
16という数字は「守られ継承されるための秘宝数」であり、日本のシンボルである菊花紋も16花弁で成り立っている。
シュメールにおいては、現在の文明を構成する要素の全てが現れた。
文字・文学・音楽・美術・化学・医学・宗教・哲学・数学・天文学・都市計画・商業・貿易・造船技術・測量技術・農業技術・冶金技術・学校制度・議会制度・司法制度・神という概念…
これらの文明が、何の前触れも、何の前例もなく、突然花開いたことは大きな謎とされてきた。
それらは、青森ハイブリッドがもたらしたものである。
メソポタミア文明と称するものが、このシュメール(紀元前9000年)を始めとして、→ パピロニア(紀元前2004年)→ ヒッタイト(紀元前1595年)→ アッシリア(紀元前13世紀)→ 4帝国時代(紀元前593年)→ ペルシャ(紀元前559年から紀元前330年)→と続いていく。

日本の国旗「日の丸」
日本は、東の国で、日が昇る始まりのところ、という意味で「日の本」と言われた。
日本は、霊的に緩やかな指導をしていた。
日本人は、太陽信仰であり、指導者は、頭の上に丸い鏡のようなものを載せており、太陽暦もそこで作られた。
祖国(おやくに)と支国(分家)を区別するために、日の丸の旗が作られ、国旗として定められた。
日本が、日の丸と菊花紋を支国に知らしめたことにより、太陽のシンボルを支国は使えず、太陽がいない時に見える星や月などを国旗に使用した。
それらは皆、太陽の支国であること、言い換えれば日本が世界の中心であることを意味していた。
なお、支那というのは、祖国(おやくに)日の本を本家として仰ぐ支国(分家)の意味。
今の中国が、支那と言われたくない理由はここにある。
中国という言い方は、中華民国から数えても百年にも満たない最近の呼び名である。

③ 竹内文書概略
竹内文書の内容は膨大であり、簡単に説明できるものではありません。
詳しく知りたい方は、関連本が多数発刊されていますので、そちらで勉強してください。
ここでは概略を見ていただきます。

ということで、特に日本人の集合意識がワンネスへシフトしている理由は、ムーの血と、龍族のYAP遺伝子が日本人に組み込まれたためなのです。
これも、これから到来する黄金時代において、日本人がその「お役目」をシッカリ果たせられるように、宇宙の根源からそのように仕組まれていたのだろうと推察されます。
それでは、今文明の始まりの話は終え、元の「文明の東西の流れ」の話に戻ります。

西回りと東回りが交互に繁栄/衰退
東の流れと西の流れの繁栄は、交互に現れます。
つまり、東の流れが繁栄している時には、西は衰退し、東の流れが衰退すると、西が繁栄するという具合です。

東西正反対の時間
東回りと西回りの文明が、800年ずつずれて発生する。
したがって、東回りが繁栄期の時には西回りは衰退期に当たり、東回りが衰退期に入ると西回りが繁栄期に入る、という具合に正反対の動きをする。
別の言い方をすれば、東回りと西回りが交互に繁栄するということである。


